日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
礼拝式次第 2020年4月26日(日)10時30分
復活節第3主日
司式 牧師 願念 望
奏楽 河野美和子
前 奏
招 詞 ヨブ記19章25節
讃美歌 210-1節 〝来る朝ごとに〟
交読詩編 詩編145編1b-9節
祈 祷
讃美歌 325-1節 〝キリスト・イェスは〟
聖 書 ヨハネによる福音書21章1-14節(新約211頁)
説 教 『希望の朝食』 伝道師 佐藤 倫子
讃美歌 402-1節 〝いともとうとき〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福 牧 師
後 奏
説教 2020年4月26日(日)
「希望の朝食」 国分寺教会 伝道師 佐藤倫子
聖書箇所 ヨハネによる福音書21:1-14
■食卓を囲む
「食事を共にする」という行為は、そこに居合わせた人同士のつながりをより深く親密なものにします。昨年の5月、伝道師就任式後の愛餐会を思い返しています。美味しいご飯と皆さんの笑顔をたくさんいただきました。一緒に食事をすることは、食事をしながら会話をし、気持ちを確かめ合い、より親しくなれる機会であると思うのです。そればかりではありません。一緒に何を食べたかということも記憶に残ります。それは脳に残る、いわゆる記憶だけでなく、体に刻みこまれる記憶として残り続けます。旅行中にあれを食べた、これを食べたというのがそうです。何年も経って同じものを食べたときに、その記憶が鮮やかに甦ることがあると思います。その時、誰がいたのかも思い出します。残念ながら、何を話したかは忘れてしまっていることが多いのですが……。言葉による脳の記憶は忘れますが、味覚・嗅覚・噛み応えといった記憶は五感に刻まれているのです。初代教会の礼拝の中で、礼拝の中心におかれたのは「主の食卓」という共同の食事でした。初代教会では毎回の礼拝の中に共同の食事が組み込まれていたといいます。コリントの信徒への手紙一には、その食卓をないがしろにする金持ちたちの姿が描かれ、パウロによって非難されています。その食事の中で、パンを祝福して割き、盃を回して飲むという行為が行なわれていました。これは弟子たちとイエスとの「最後の晩餐」を再現するものであり、後にこれが聖餐式という儀式になっていったと考えられています。
■主の食卓
今日の箇所もまた、食卓の場面が描かれています。復活されたイエスもまた、弟子たちと共に食事をされました。十字架の出来事の後、元々漁師をしていた弟子たちはガリラヤ湖で再び漁に出かけます。自分たちの力では何もとれず、徒労感だけが残っていました。そこに、復活されたイエスが現れ、そのイエスの助言によって大漁へと導かれてゆきます。捕れた魚を岸に引き寄せていくと、そこに「炭火が起こしてあった。パンもあった。」イエスは言われます、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちはもはや誰も「あなたはどなたですか?」とは尋ねません。それがイエスであることが分かっていたからです。共に食卓を囲む時、そこに共にイエスもおられます。そして、信じる人々を「共に生きる生活」「隣人のためにあるいのち」へと導いてくださる。それを確かめ合う交わりが、やがて、初代教会における「主の食卓」となっていったのでしょう。イエスと共に歩んだ日々の記憶は、共に食卓を囲むという体全体で受けとめたものとして弟子たちのうちに留まり続けました。
■希望の朝食
新型コロナウィルスの流行により食卓を共にすることが難しい状況が目の前にあります。若い年代の方たちの間では、パソコンやスマートフォンを通してビデオカメラ越しでの飲み会や食事会が流行しており、私も波にのって時折参加しています。実際にやってみると、そこには日常を、つながりを保ち続けたいという心が表れているような気がします。今、私たちも共に集って礼拝を捧げることが出来ません。その中にあって交わりを再確認するためにこうして動画で配信したり、インターネットに情報を載せたりしています。もちろん、こういった手段を用いなくても私たちはキリストを真ん中にして一つに繋がっていることはわかっています。それでも、……。イエスを十字架で失った弟子たちもやはり自分たちがキリストの弟子であることで、一つに繋がっていることは分かっていました。それでも、現実の交わりが失われたことは大きな痛手でした。そこに、復活のイエスが来られ、共に食卓を囲まれた。その喜びは何物にも代えがたいものだったでしょう。共に食卓を囲んだ弟子たちは希望に溢れたことでしょう。あの食卓はまさに、「希望の朝食」でした。そして、その喜びと希望を今の私たちにまで伝えてくれています。この喜びの現実化が、私たちの献げる礼拝であり、主の食卓の交わりです。今まで当たり前のように礼拝を献げ、今まで当たり前のように交わりを大切にしてきました。その当たり前が当たり前でなくなった今、改めて私たち自身が問われています。共に集うことができなくても、私たちのつながりの中に、私たちの交わりの中に、主は共におられる。そのことを実感できているだろうか、と。あの弟子が「主だ」とイエスに気付いた時のように私たちも交わりの中にイエスを見出したい。再び集うことが許された時、きっと、私たちの食卓も弟子たちの食卓と同じように、「希望の朝食」となるでしょう。私たちはその喜びを全身でもって表現したい。改めてこの交わりにこそ、私は生かされているのだと声を大にして叫びたい。それぞれの思いと共に、その日を待ち望みたいと思います。