2022年2月13日(日)礼拝式次第と説教 「この土地に種を蒔く」

2022年2月13日

 

教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。

 

 

降臨節第8主日礼拝
2022 年 2 月 13日(日)
司式 役員
奏楽 浅井 義子

前 奏
招 詞    詩編86編11節
讃 美 歌    495-1節 〝しずけき祈りの〟
交読詩編     詩編126編1-6節
祈 祷
讃 美 歌   412-1節 〝昔 主イェスの〟
聖 書    マルコによる福音書4章1-9節(新約66頁)
説 教    『この土地に種を蒔く』  牧師 佐藤 倫子
讃 美 歌   566-1節 〝むくいを望まで〟
信仰告白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

 

 

 

説教 2022 年 2月 13日(日)
「この土地に種を蒔く」   牧師 佐藤 倫子
マルコによる福音書4章1-9節

 

■小さくされた人々は

イエスは、舟に乗って人々に語ったといいます。それは、巨大な船の上から、湖の岸辺の群衆を見下ろしていたのではありません。小さな漁船は、湖の岸辺の人々からは下の方に見えるものです。イエスは、群衆を見上げ、下から語りかけられました。下から語りかけるイエスは、群衆に何を教えたのでしょう。

イエスを慕って集まった人々は、その多くが抑圧されていた人々でした。また、病人や穢れた人とされた人々でした。つまり、当時の社会において、日の当たる場所にいられなかった人たちが多く含まれていたのです。宗教的な規定によって、これらの人々にはユダヤ人成人男性に当たり前に認められていた権利が制限されていたり、剥奪されていました。そして、それが当然視されている社会だったのです。
そのような人々がこのたとえを聞いた時、どこに自分を見るでしょうか。土地だとすると理不尽です。だとすれば、蒔かれた種を自分たちの境遇に重ね合わせたことでしょう。種は蒔かれた土地によってこんなにも成長と実りが違うのです。それは種の良し悪しによるものではありません。

それと同じように、ひどい境遇に置かれている自分たちも原因が自分にはありません。たまたま生まれた環境や育った環境によって辛い立場に置かれているのであって、それは恵まれて生きている人たちも同じです。それぞれの種、つまり人間に責任がある訳ではないのです。
たとえはこうしたこの世の不条理さを訴えると共に、一人一人の人間に優劣があるのではないこと、人間としての尊厳には変わりが無いということをも伝えているのではないでしょうか。

 

 

■種を蒔く人

群衆の大部分にとって「種を蒔く」のは、ごくごく日常的な体験だったことでしょう。イエスは、群衆がよく知っている種蒔きの、その出来事だけを語ります。何も「教え」はしていません。それは「あなたがよく知っている日常の出来事の中に、隠されている意味を探してご覧なさい」と問いかけるようです。

このたとえ話では、道端に落ちた種や石だらけで土の少ない所、茨の間に落ちた種は、実を結ぶことができなかったとされていますが、最後に「良い土地」に落ちた種は、30倍、60倍、100倍にもなったと語られています。
ここで語られている農法は、わたしたちからすれば不思議な印象があります。当時、パレスチナでの種まきは、日本でやるように、よい土地だけに狙いを定めて土の中に一粒ずつ、もしくは数粒ずつ植えるような方法ではなく、大きく手を広げて、広範囲に蒔くことが一般的でした。当然、種は畑の中ばかりでなく、道端や石地、茨の中にも落ちたのでした。非効率的だ、と否定することもできるでしょう。けれども、当時の農夫にとっては、実際に経験していることです。思わず身を乗り出して聞いたことでしょう。

この農夫が経験したように、日常生活のさまざまなことは、必ずしも効率と合理性が優先されるわけではありません。むしろ、無駄であると思われるようなことを繰り返していかなければならないのです。

「不毛」と思える地に、それでも種をまく人の姿。それはある意味、道なき道を進まれ、光の届き難い場所に神の言葉を届け続けたイエス・キリストの姿と重なるものだと言えるのかもしれません。そして私たちもまた、この苦労を味わいます。蒔けども蒔けどもいっこうに芽が出ない。それどころか、自分の行いがすべて無駄ではないかと思う。そんな中で、一つの芽が出ることのすばらしさ。そして新たに力を得て、もう一度種蒔きに出かける歩み。
この聖書箇所の少し後に、種は、「神の言葉」であると示されています。 では、種が蒔かれる土地とは何でしょう。それは、私たちの「心」です。種蒔きにおいて蒔かれる種とは神さまの言葉であり、それを受け止める土地は私たちの心の在りようなのです。

 

 

■「国分寺」の地で

先週、国分寺教会は伝道開始76年記念礼拝を献げました。
76年前、戦後の貧しい時代に国分寺の地で地道に蒔かれた神の言葉が芽を出し、豊かに成長したからこそ、今の教会があり、私たちが今、結ばれているのです。
種を蒔くことは決して無駄にはなりません。そして私たちもまた、先達の歩みに倣ってこの地に福音の種を蒔き続けていきましょう。

 

 

 

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