教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。
日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。
降臨前第4主日礼拝
2021 年 11月 28日(日)
司式 役員
奏楽 内田 直美
前 奏
招 詞 マルコによる福音書13章24-27節
讃 美 歌 208-1節 〝主なる神よ、夜は去りぬ〟
交読詩編 詩編82編1-8節
祈 祷
讃 美 歌 361-2節 〝この世はみな〟
聖 書 イザヤ書 51章4-11節(旧約1146頁)
説 教 『夜明け前』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌 236-4節 〝見張りの人よ〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年11月28日(日)
「夜明け前」 伝道師 佐藤 倫子
イザヤ書 51章4-11節
■アドヴェント
今日、1本のろうそくに火が灯されました。火とは面白いもので、暗闇の中に置かれることによって、周囲がその光によって照らされ、暗闇の中では見えなかったものが、見えてきます。
夜が白々と明ける、ほんの少し前。真っ暗な中で目を覚ました日。明かりは何もない。まだ周りの家も電気がついておらず、街全体がまだ夢の中のよう。太陽が少しずつ顔を出していく。れだけで、世界が一気に広がったように思える、みなさんにも経験があると思います。
■待ち望む
アドヴェントの季節を迎えました。一度世に生まれたイエス・キリストの降誕を毎年待つということは、その降誕の意味を繰り返し問い、新たに受け止め直す、ということです。それは同時に、「再び来る」という再臨の約束を思い起こす時でもあります
バビロンで補囚となっている民に向かって、預言者イザヤは希望の言葉を語り続けます。イザヤは苦しみのただ中にある民の目を、神の恵みと約束に向けさせるのです。私たちもまた、苦しみに襲われているその只中では、どうしてもそこから目を離すことができないものです。頭も心もそのことでいっぱいになってしまいます。しかしイザヤは言うのです。過去において神はどれだけの恵みの業をなしてくださったか。また将来にどれだけの祝福の約束を与えてくださっているのか、と。暗闇の中で、神の正義を示し、希望の光を待ち望む信仰を教えてくれているのです。
■神の正義
神の正義とは、法的・社会的公正さを意味するのではありません。神の正義は、罪人への厳格な裁きではないのです。罪なき者の救い。つまり、貧しい者や不当に罪を着せられている社会的弱者に対する公平な審判とそれによる救いを意味しています。
遠い昔、主は、異国で囚われ、苦しめられていた民を解放してくださった。不可能を可能にし、絶体絶命の窮地に道を拓き、絶望に換えて希望を与え、ご自分の民を約束の地に導いてくださった。そして、わたしたちに御子イエス・キリストを与えてくださった。その事実を知るわたしたちには、現代の闇を知る感性が必要です。
島崎藤村の代表作に小説「夜明け前」があります。「木曾路はすべて山の中である」という有名な書き出しで始まるように、主人公は大政奉還という時代の夜明けを、山の中の街で希望に燃えて迎えます。しかし、さらに明るさが増して見えてきたのは綺麗なものばかりではありませんでした。 主人公の「今は夜が明けようとしている時だ」と思いたい気持ちはことごとく裏切られていき、結局、夜明け前を迎えることが出来ないまま、小説は終わりを迎えます。
島崎藤村が見続けた闇は、未だ明けていないのではないかとも思える、そのような状況が続いています。社会がどれほど変化しようとも、世界を覆う闇は、今もわたしたちを取り巻いています。
■夜明け前
暗闇に支配されているこの世の状況の中で、目を覚ますためにろうそくを1本灯すことは、非常に大きな意味を持っているでしょう。たとえ現状がどれほど厳しいものだと、今、このわたしの目に映ろうとも、必ず神の正義は実現されるのです。 もっとも深い夜を迎えた時、来るべき朝はすぐそこにあります。主は闇の一番深いところに入って行かれる方です。
このアドヴェント、このクリスマス、私たちは本当の意味で喜びを与えてくださるのは誰なのか、思い巡らせたいと思います。本当の意味で安心をくださるのは誰なのか、考えたいと思います。その方が私たちのために何をなしてくださったのか、どんな希望を備えてくださっているのか。この希望は、「主と共に生きる」祝福へと、わたしたちを導いてくれるでしょう。
この礼拝において灯される光は、礼拝に集う者一人一人が、自分自身とこの世界を覆う闇と正面から向き合う時に、本当の意味での光となるのです。一足先に目を覚ましたわたしたちは、暗闇の中で、なおいっそうの神の光を待ち、語り続けます。今までも、そしてこれからも。本当の夜明けを待ち望みながら。