10月より、教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。
日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。
子ども祝福礼拝(降臨前第6主日)
2021 年 11月 14日(日)
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 浅井 義子
前 奏
招 詞 イザヤ書5章1節
讃 美 歌 219-3節 〝夕日落ちて〟
交読詩編 詩編46編1-4節
祈 祷
讃 美 歌 451-2節 〝くすしきみ恵み〟
聖 書 ヨハネによる福音書 6章16-21節(新約174頁)
説 教 『わたしはいる、ここに』 牧師 上林 順一郎
讃 美 歌 532-2節 〝やすかれ、わがこころよ〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年11月14日(日)
「わたしはいる、ここに」 牧師 上林 順一郎
ヨハネによる福音書 6章16-21節
20年数年前、初めてイスラエルを旅行しました。ガリラヤ湖畔に行ったとき、天気も良く船で湖上を遊覧しようと沖へ向かいました。ところが、30分ほど沖に出たときに突然空が真っ黒になり、雨が降り、風も吹いてきて舟は大揺れに揺れだしたのです。遊覧船と言っても屋根はあるのですが、雨や風を遮るものは何もありません。横殴りの大雨になり、雨水が船底にどんどん溜まり始め、このままでは船は沈むのではないかとの恐怖に襲われました。
聖書に書いてあるようにイエスが舟に近寄ってきて「雨よとまれ、風よ沈まれ」と言ってくださるどころか、風や雨はさらに激しくなり、これ以上は危険だとの判断で、いのちからがら陸地へと引き返しました。船が陸地に着いた時、雨がやみはじめ、次第に青空が広がり、見上げると空に大きな美しい虹が出ていました。ノアの洪水の後、神が「命あるものを二度と滅ぼすことはない」と約束されたノアとの契約の虹だと思いました。イエスは私たちの船と共にいてくださっていたのだ。
きょうの聖書の出来事は四つの福音書に記載されています。弟子たちにとって、よほど印象的な出来事だったのか、あるいはその時の体験が彼らの信仰のあり方についての大切な教訓となっていたのか、多分両方だっただろうと思います。
イエスの弟子たちが生きていた日々も嵐の海を沖に向かって漕ぎ出していくような危険で、困難なものだったはずです。時には雨風にさらされ、大波にもてあそばれ、海の中に投げ出されて沈んでしまうような困難に合うことも多かったのです。弟子たちは「わたしたちが溺れ死んでもかまわないのですかと、「なぜ、私たちを助けてくださらないのですか」と、叫び、訴えることもあったはずです。
その時、イエスは答えます。「わたしだ。恐れるな」と。この「わたしだ」という言葉はイエスがしばしば語られる言葉ですが、聖書の原文では「二文字」です。英語では「I am」となります。それだけでは意味がよく分かりません。じつは、この言葉は出エジプト記3:15以下でモーセがホレブの山で神と出会ったとき、「あなたの名前は何というのですか」と尋ねた時、神は「わたしはある」と答えられた言葉です。この「わたしはある」を文語訳聖書では「わたしは有りて在るものなり」と訳していました。名訳ですが、「ある」という神の「存在」をあらわす表現です。
実は、この言葉は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出エジプト記3:7)と言われた神の行動と深く関係しているのです。神はイスラエルの民に対して「わたしは必ずあなたと共にいる(インマヌエル)」を宣言されているのです。
ノーベル平和賞を受けたユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルはアウシュビッツの強制収容所に入れられ、言葉に言いあらわせないほどの苦しみと悲惨さを味わいます。その経験をもとに書いた小説「夜」と題する本の中に収容所で見た二人の囚人と一人の少年の絞首刑の場面を描いた箇所があります。
“三人の死刑囚は、いっしょにそれぞれの椅子にのぼった。三人の首は同時に絞索の輪の中に入れられた。「神様はどこだ、どこにおられるのだ」わたしの後ろで誰かがそう尋ねた。三つの椅子が倒された。全収容所内に絶対の沈黙。わたしたちは涙を流していた。退場の行進が始まった。二人の大人はもう生きていなかった。しかし三番目の綱はじっとしていなかった。こどもはごく軽いので、まだ生きていたのである。わたしの後ろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。「いったい神はどこにおられるのだ」そして、私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた。「どこだって。ここにおられるーここに、この絞首台に吊るされておられる」”
絞首台に吊るされている神、それは十字架上で磔にされている神の子の姿と重なってくるのです。なぜ、イエス・キリストは十字架の上で死んでいったのか。なぜ、神はイエス・キリストを助けようとしなかったのか。そう問いかけるとき、わたしたちは神の声をきくのです。「わたしはいる、ここに、この十字架の上に」神は徹頭徹尾、私たちの苦しみと共にしておられるのです。
イエス・キリストを言葉で百回説明するより、「神は私たちの苦しみと共におられる」との、一つの事実に出会うことが信仰への道なのです。