10月より、教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も10日より再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。
日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。
降臨前第9主日礼拝
2021 年 10月 24日(日)
司式 役員
奏楽 内田 直美
前 奏
招 詞 イザヤ書60章1-2節
讃 美 歌 208-1節 〝主なる神よ、夜は去りぬ〟
交読詩編 詩編19編1-7節
祈 祷
讃 美 歌 225-1節 〝すべてのものらよ〟
聖 書 創世記2章4b-9節(旧約2頁)
説 教 『Always with you -人間らしく生きる』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌 454-7節 〝愛する神にのみ〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年10月24日(日)
「Always with you -人間らしく生きる」 伝道師 佐藤 倫子
創世記2章4b-9節
■土の塵からつくられた
聖書は私たち人間をどのようなものとして捉えているでしょう。神に作られた存在として、神に似せた姿を与えられた存在として、優秀で万能な完璧な存在として描かれているか、と見てみれば、そうではありません。聖書は人間を決して万能で完全なものとして捉えているのではない。それは、土の塵から人間が作られたのだ、という一言からも分かることです。
もし、人間を完璧なものとして作るのであれば、私だったらダイヤモンドや金など、もっと希少価値の高いものから作っていたことでしょう。しかし、そうではなくて、土から作られたと書かれています。神が作られた大地から生み出されたというところに、人間の本質が隠されているのだと思います。この世に存在する全てのもの、土や水、草や木、鳥や動物たちと同じように人間もまた、神が作り出された自然の一部として機能している。それは間違いないことです。
だから、神の似姿である人間が全てを支配できる、などという考えは、本来ここから現れてくるはずがないことです。しかし、それでもなお、人間は聖書を都合良く読もうとしてしまう。神が私たちに向けて語りかけられているメッセージを、自分に都合良く理解しようとする。全ては神から与えられた力だから、それを利用しない手はないと傲慢になっていく。工夫して身につけた知識や知恵を総動員して、神の力に抗おうとする。そこで、神との関係は崩れてしまうのです。それが、神の求められている道から外れてしまう私たち人間の罪なのです。
神によって与えられた力を、自分の都合だけで用いてしまう。周りの一切のことが目に入らず、自分中心に考え、生きてしまう。その罪の中で、私たちは時に神を頼り、時に神を見ようとしない。そんな傲慢で罪深い人間など、さっさと見捨てられてしまうのではないか、と思う時、聖書の言葉は、神の深い愛を私たちに示してくれるのです。神が作り出されたもの、人間を含めた全てのものをいかに愛されているか、ということを明確に示しています。
■命の息
それは、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(7節)とあることからわかります。ここで「息」とあるのは、ヘブライ語で「ルーアッハ」。「ルーアッハ」は、ここにあるように「息」とも訳せるし、「風」「霊」とも訳せる言葉です。
「地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が水の上を動いていた」(創世記1:2)
この箇所の「神の霊」も「ルーアッハ」。風は、涼しく心地よい気分にさせてくれる時もあれば、家をも吹き飛ばしてしまうような暴風になることもあるものです。そして、風がどこから来てどこへ行くのかは分かりません。その風にイスラエルの人々は神の存在を感じたのでしょう。神の力は風と同じように、時に心地よく、時に恐ろしい。神の力がどこから与えられたものか、神がその力をどのように用いられるかは人間にはわからない。それほど神の力は大きく、偉大である。ということがこの「ルーアッハ」という言葉に込められています。
「ルーアッハ」、神の「命の息」が私たち人間に吹き入れられている。神の力が私たちに注がれている、ということは、神が私たちを決して見捨てないというその意思の表れなのです。
■人間らしく生きる
そして「神はご自分にかたどって人を創造され」(創世記1:27)ます。この時に誕生した最初の人間アダムを観察した神は人がひとりでいるのは良くないとパートナーであるエバを与えました。この聖書箇所を根拠にして、女性は一方的に奉仕すべきと教えられてきた歴史があることも事実です。しかし本来「パートナー」とは、上下関係では無く、お互いが平等に向き合う関係を意味する言葉です。また、創世記は人間の性を男と女という二極に想定していますが、現在では自認する性や表現方法の仕方は多様であること、そしてその多様性に伴ってパートナーシップのあり方も多様であることが少しずつではありますが、認識され始めています。
人間が、人間らしく生きていく。神さまの目から見て、一人ひとりが価高く、尊い存在である。これが聖書の根本のメッセージなのです。
そして神の救いを人々にはっきりと示されたのが、イエス・キリストです。病の人、貧しい人、社会から落ちこぼれ、切り捨てられた人を訪ねて歩き、「神はあなたを愛しておられる。だからあなたは決してひとりではないのだ」と語り続けられたイエス。その背中を追いかけて、今週も歩んでまいりましょう。