2021年10月3日(日)礼拝式次第と説教 「答えは、動詞だ」

2021年10月3日

 

本日より、教会に集う形での礼拝を再開いたします。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)は次週10日からの再開となります。
引き続き感染症対策にご協力ください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。

 

 

世界聖餐・宣教の日礼拝
2021 年 10月 3日(日)
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 内田 直美

前 奏
招 詞     詩編95編6-7節
讃 美 歌   17-3節 〝聖なる主の美しさと〟
交読詩編     詩編84編1-5節
祈 祷
讃 美 歌   493-3節 〝いつくしみ深い〟
聖 書    ルカによる福音書10章30-37節(新約126頁)
説 教    『答えは、動詞だ』  牧師 上林 順一郎
讃 美 歌   512-2節 〝主よ、献げます〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

 

 

 

説教 2021年10月3日(日)
「答えは、動詞だ」    牧師 上林 順一郎
ルカによる福音書10章30-37節

 

ある哲学者は、人間が「忘れる言葉」には順序があるといっています。まず最初に忘れはじめるのは「名詞」だそうです。特に人の名前を思い出すのは大変です。顔は浮かぶのですが、名前がなかなか出てこないという経験はどなたにもあるでしょう。次に忘れやすいのは「形容詞」だそうです。「きれい」とか、「かしこい」とかという形容詞が忘れやすいそうです。最後まで忘れないのは『動詞』だと言っています。

私は日常生活だけでなく、信仰の世界でも同じように考えます。私たちの信仰でも「名詞」を使うことが多いのです。たとえば、「神」とか、「教会」とか、「礼拝」とか「祈り」と、名詞形で使います。「罪」とか「救い」という言葉も、「愛」とか「奉仕」、とか「伝道」というのも名詞形です。信仰の世界でも形容詞形もあります。「敬虔なクリスチャン」とか、「熱心な祈り」とか、「正しい信仰」と言ったりします。しかし「動詞形」で表現することは少ないのではないでしょうか。たとえば、「信仰」を動詞で表現するとどうなるでしょうか?「愛」を動詞で言い換えるとどういうことになるのでしょうか?

 

善きサマリア人とは

このたとえは、イエスと一人の律法の専門家との対話から始まります。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問をします。それに対してイエスは「律法には何と書いてあるか、あなたはどう読むか」と問いかけますと、彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と律法の最も重要な教えを答えます。原文を少し原文通りに厳密に訳しますと「すべての(これは形容詞です)心(名詞です)、すべての精神(名詞)、すべての力(名詞)、すべての思い(名詞)で神である主を、また隣人(名詞)を自分のように」ということになります。こうしてみると、律法の内容のほとんどが形容詞と名詞であることがわかります。イエスは言います。「正しく答えた。それを行え、そうすればあなたは生きる」

そして「善きサマリア人のたとえ」が始まるのです。ある人が旅の途中で強盗に襲われ、瀕死の重傷のまま道端に捨て置かれました。そこに祭司が通りかかりますが「彼を見て、避けて別の側を通っていった」、続いてレビ人(祭司の一族ですが)通りかかります。しかし祭司と同じように「彼を見て、避けて別の道を通っていった」とあります。

イエスは続けます。「旅をしていたあるサマリア人がその場所にやってきます」イエスはここから特徴的な表現を始めます。「サマリア人はそばに来ると、その人を見て憐れに思い近寄って、傷に油と葡萄酒を注ぎ包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って、介抱した」ここには動詞(下線部分)が9回連続で使われています。律法が名詞と形容詞とで作られているのに対して、イエスの教えは動詞であふれています。

 

最後のことばも「動詞」で

「私の隣人とは誰のことですか」と、名詞形で質問する律法の専門家に対して、イエスは「だれが追剥に襲われた人の隣人になったと思うか」と動詞形で問いかけます。「私の隣人とはだれか(名詞)」ではなく、「だれが襲われた人の隣人になったのか(動詞)」が問題なのです。

カトリックの現在の教皇フランシスは「教会は野戦病院であれ」と言います。
「重い傷を受けた人に、コレステロールや血糖値を訪ねることほど無意味なことはありません。まず、傷ついた人々をいやすべきです。傷をいやすという、なによりも低いところから始めるべきです。野戦病院というのは、戦場のすぐ近くに作り、傷つき、病み、死んでいく人々を、本来は敵味方に関係なく、受け入れるところです。戦場から遠く離れていれば、いくら建物や設備が立派でも、素晴らしい医師や看護師がいても意味はないのです」

教会はすべての人々、傷つき、病み、死につつある人々を誰彼なく受け入れる「宿屋」です。そのためにはそれらの人々のすぐ近くになければなりません。立派な建物がなくても、才能や力のある人々がいなくても、教会は名詞形ではなく、動詞形で生きようとするならば、その時に「教会は生きる」のです。

 

とはいえ、高齢者が多くなっている「わが宿屋」は名詞形や形容詞どころか、動詞も忘れるようになり、「あれ、これ、それ」としか言えないとしても、最後の残る動詞形、「いのる」ことだけは忘れることがないように祈りたいと祈っています。

 

 

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