2021年8月15日(日)礼拝式次第と説教 「金銀はなし、されど」

 

新型コロナウイルスの感染が急激に拡大し、東京都では5000人を超える勢いとなっています。

こうした事態に対して感染の危険を避けるために8月15日(日)の礼拝から8月29日(日)までの主日礼拝を在宅礼拝といたします。オンライン配信や説教要旨などを用いてそれぞれの場所で礼拝をお献げください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

 

2021 年 8月 15日(日)
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞      詩編135編1-3節
讃 美 歌   51-1節 〝愛するイェス〟
交読詩編     詩編122編6-9節
祈 祷
讃 美 歌   504-3節 〝主よ、み手もて〟
聖 書    マタイによる福音書20章20-23節(新約39頁)
説 教    『金銀はなし、されど』  牧師 上林 順一郎
讃 美 歌   481-4節 〝救いの主イェスの〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福

 

 

 

説教 2021年8月15日(日)
「金銀はなし、されど」   牧師 上林 順一郎
マタイによる福音書20章20-23節

 

今日の聖書には、「ゼベダイの息子たちの母が、二人の息子と一緒にイエスの所に来て、ひれ伏し、願いました。イエス様、「あなたが王座に就かれるとき二人の息子が一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるようにしてください」と。オリンピックで言えば、「一人に金メダルを、もう一人には銀メダルを」ということになるでしょうか。

この母親は自分の息子たちが弟子たちの中で一番上の地位になってほしいと願っていました。しかし、一番はいつもペトロでした。ペトロが最初の弟子であることは間違いのないとしても息子たちもペトロのすぐ後にイエス様に従って弟子になったのだし、「ペトロは網を捨てて従った」が、息子たちは「舟と父親とを残してイエスに従った」のです。ペトロより息子たちの方がたくさんのものを捨ててイエスに従ったのにと、母親は考えたのです。

しかしイエスは「あなた方は、自分が何を願っているのか、わかっていない。この私が飲もうとする盃を飲むことができるか」と、問いかけます。息子たちは「できます」と答えました。彼らは盃と聞いて王座に座っているイエスから与えられる名誉の金の盃、銀の盃を考えていたのでしょう。しかし、イエスの語られた盃とはイエスがゲッセマネの園で「父よ、あなたは何でもお出来になります。どうか、この盃をわたしから取りのけてください」と祈られた盃のことです。それはイエスが受けようとされる十字架の苦しみのことです。

 

1,信仰とは服従のこと

母は息子たちが「舟と父とを捨ててきた」ことを主張しましたが、信仰とは確かに自分中心の生活を捨てて、自分の栄誉や財産を捨ててイエスに従うことです。しかし、捨てるという行為が信仰ではないのです。ましてやそれが信仰の功績や善行になるのでありません。イエスに従うこと、「服従」こそが信仰なのです。

ボンフェファーは「服従」について、「キリストは、苦しむ者・捨てられた者としてのみキリストである。それと同じように、弟子たちも、苦しむ者・捨てられた者として、すなわち、共に十字架につけられた者としてのみ弟子である。イエス・キリストの人格と結びつくことが服従であるが、このことは服従する者をキリストの律法、すなわち、十字架の下に立たせる」

イエスは言われます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は。皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。(マタイ20:26~27)

ここには「仕える」という言葉が三度も繰り返されています。この言葉はもともとは「食卓の給仕をする」という意味で、当時の社会では低い仕事と見なされ、奴隷の役割でした。「一番上になりたい者は、皆の奴隷になりなさい」とイエスは語っておられるのです。イエスご自身が「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるためにきた」(20:28)と、十字架にかかることを通してイエスは「仕える」生き方を示されたのです。しかし、その時の弟子たちには何のことか、理解できなかったのです。彼らはイエスが十字架につけられた時、十字架の下に立つことに耐え切れず逃げ去ってしまったからです。ヤコブもヨハネもイエスを捨てて逃げ去って行ったのです。かつて「舟と父とを捨てたように」。

 

2,その後の母は?

ところで、あの母親はその後どうなったのでしょうか?マタイの27:55にはイエスが十字架にかけられ苦しむ姿を遠くから見守っていた女性たちがいました。「ガリラヤからイエスに従って来て、世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」とあります。そう、あのゼベダイの子らの母が十字架の近くに立って、イエスを見守っていたのです。「イエスに従って、世話をした」女性と書かれています。「世話をした」、これは「仕える」という言葉と同じ言葉です。彼女はイエスに従い、人々に仕えてきたのです。一度は息子たちの栄誉と権勢を求めた母でしたが、悔い改めてイエスに従ってきたのです。その名前は歴史に残されていません。彼女はいまや金や銀を求める人ではなかったのです。イエスに従うこと、仕えることが彼女の栄光であり、喜びだったのです。金と銀とを得ることはできなかったけれど、イエスの名によって生きる喜びを得たのです。息子たちは逃げ去ったのですが、母は十字架の下にとどまり続けました。「母は、エライ!」

 

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