2021年4月25日(日)礼拝式次第と説教 「新しい命のはじまり」

2021年4月25日

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝 2021 年 4月 25日(日)
司式 役員
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞    イザヤ書60章1節
讃 美 歌   329-1節 〝目覚めよ、歌えよ〟
交読詩     詩編136編1-9節
祈 祷
讃 美 歌    296-1節 〝いのちのいのちよ〟
聖 書     ヨハネによる福音書11章17-27節(新約189頁)
説 教    『新しい命のはじまり』  伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌    475-4節 〝あめなるよろこび〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福

 

 

説教 2021年4月25日(日)
「新しい命のはじまり」                         伝道師 佐藤 倫子
ヨハネによる福音書11章17-27節

 

■ラザロの死と復活
夜の眠りから朝の目覚めへと向かう営みは、死からの復活に似た経験だと言えるかもしれません。意識のない状態から、ものを考え、感じ、行動する状態へと移る。朝の目覚めを「朝ごとに新しく生まれる」、そのように迎えることができたら、どんなに幸いでしょうか。
キリスト教は、復活を希望をもって信じる宗教と言えるでしょう。それは言うまでもなく、イエス・キリストの復活の出来事が私たちの信仰の出発点だからです。死者の復活。それは私たちにとって「あり得ない」と思える不思議な出来事であり、だからこそ人知を超えた神の力をそこに感じるのです。しかし、聖書の時代の人々にとっては、現代に生きる私たちほど、あり得ないものではなく、しばしば起こり得る出来事としてとらえられていたのかもしれません。新約聖書にはイエスの復活だけでなく、他にも死者の復活の出来事がいくつか記されています。今日の箇所はそのひとつ、「ラザロの復活」の直前の場面です。私たちの人生は、肉体の死によって、ある日突然終わります。そのことによって愛する人と隔てられてしまう。しかし聖書は、この切断は絶対的なものではない、と告げているのです。私たちの前に立ちはだかる肉体的な死を超えるものがある。ラザロの復活は、それを証しするために、一つの例として示されているのです。

 

■わたしは復活であり、命である
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:26-27)
実は、ラザロの復活物語全体のクライマックスは、イエスとマルタとのやりとりの、この言葉にあります。物語全体がこの言葉のためにあると言ってもよいでしょう。ラザロは、何年、あるいは何十年後か先に再び肉体の死を迎えたででしょうが、この言葉は永遠に残るからです。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」ということと、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」ということは、同じことを裏表で語っています。それは、命の源であるキリストにつながる時に、死は死でなくなる、ということです。
人間にとって、仮に一時の病が癒されたとしても、死は人間にとって不可避であり、死の支配に屈せざるを得ない運命にあります。しかし、イエスはその死を避けることにおいてではなく、神による永遠の命の約束においてそれを克服してくださったのです。
そんなことはにわかには信じられない。それが率直な気持ちかもしれません。私たちは、合理的であることが全てに最優先するという価値観を、いつの間にかしっかりと持っています。ですが、その価値観では満たされない、という事実も同時に抱え込んでいるものです。

 

■新しい命のはじまり
「理性」ではない。かといって「熱狂」でもない。ただ死の力を乗り越える主の力があることを信じる。また、信じることができない時が来たとしても、その時を乗り越えさせてくださる主の力を信じる。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハネ11:27)
非合理な命題が突きつけられたマルタは、すぐに「信じる」と答えました。この後、その答えが彼女の中で揺らぐこともあったかもしれません。それでも、彼女は彼女の内からわき出る力によって、すぐに、そして率直に「信じております」と答えることができたのです。
さて、このあと死から蘇ったラザロは一体どうなったのでしょう。少し後には、ラザロはイエスと共に祭司長たちから命を狙われるようになったと記されています。さらに、伝承によると彼は宣教者として活動したそうです。ラザロにも「その後」の歩みがあったのです。イエスと共に命の危険に晒されつつ、その運命を呪うどころか、宣教の働きを担うひとりとなっていったのです。ラザロ自身も、「理性」でも「熱狂」でもなく、ただ信じる心が、原動力となったのです。
ラザロは死から蘇った。それは確かに驚く出来事ですが、それだけなら、私たちとは関わりのない事柄で終わってしまいます。しかしラザロはイエスによって新しく作り変えられ、はじまりを告げる新たな命とされたのです。私たちも復活のイエスと出会い、新しい命を授けられた一人ひとりです。この新しい命を燃やしつつ、ともに「信じるもの」としての歩みを進めてまいりましょう。

 

 

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