2021年3月21日(日)礼拝式次第と説教 「仕える者となる」

2021年3月21日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝 2021 年 3 月 21 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 内田 直美

前 奏
招 詞    詩編118編1-4節
讃 美 歌   152-1節 〝みめぐみふかき主に〟
交読詩 編  詩編118編19-25節
祈 祷
讃 美 歌   297-1節 〝栄えの主イェスの〟
聖 書    マタイによる福音書20章17-28節(新約38頁)
説 教    『仕える者となる』 牧師 願念 望
讃 美 歌   484-1節 〝主われを愛す〟
信仰告 白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

説教 2021年3月21日            牧師 願念 望
「仕える者となる」マタイ20章17~28節

与えられています箇所は、「イエスはエルサレムへ上って行く途中」(17節)とあります。何のためであるかというと、救いの道を拓くため、主イエスは命をささげようとされている。それはもちろん弟子たちのためであり、私どものためでもあります。聖書が告白しています。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:25)
主イエスは、命を献げる覚悟を持たれ、深い思いを込めて、弟子たちに前もって十字架の死と復活を預言されました。(18・19)しかし、弟子たちは、十分に受けとめきることができなかった。十字架の死と復活による救いは、彼らの思いをはるかに超えたことでした。私どもも、主なる神から信仰を与えていただかないと、主イエスの救いがよく分からない。教え続けていただく必要があります。神の御言葉に伴う聖霊の働きがどうしても必要です。聖霊は、目に見えない神御自身であり、神の霊(Ⅰペトロ4:14)、キリストの霊(フィリピ1:19)であります。
主イエスが十字架への道を歩み出されて、救いに関わる最も大切ことを語っておられる時に、弟子たちは主イエスの思いを受けとめきれないばかりか、大きくずれていたのです。危機的な状況で、その心の奥底にあるものが露呈することがあります。弟子たちの心には、この世的に偉くなりたい思いがどうしてもあったのでしょう。その思いを代弁するように、ある弟子たちの母が、主イエスに願い出ています。「ゼベダイの息子たち」というのは、弟子たちの中心であったヤコブとヨハネです。その願いは、自分達を主イエスの右と左に座らせてほしい、という名誉心だけの話です。(21)悲しいことに、主イエスの歩みと、弟子たちの思いがあまりにもずれています。
しかし、それでもなお、主イエスはその願いを受けとめておられる。そして、ついてくることができるようにと憐れみをもって導いておられるのです。その主イエスの憐れみ、神の愛は、とらえきえないほど深いものです。弟子たちの愚かに見える願いは、やがて献身の思いに変えられるのです。
神の愛をもって弟子たちを受けとめていかれる主イエスの姿に、徹底して仕える姿を見ることができる。私どもの模範としての、いや模範とは到底できない、ついていけない神のしもべの姿がある。模範以上の模範です。それは、誰も父なる神の御心を満足させることができない中で、主イエスは、まことに神のしもべとして生きてくださった。その主イエスが、私どもに先立って導いてくださるのです。

信仰生活でとてもとても重要なことは、恵みに生きることです。恵みというのは、与えられる理由がないのに、あえて神が憐れみをもって与えてくださるものです。与えられるいわれがないものをいただいているということです。今与えられている救いを考える時に、これを当たり前のこととして、当然いただくべきことと考えたら、私どもは恵みから外れていくのです。恵みをいただいていることについて考えると、恐れを抱くことがあります。恐れと感謝をもって恵みをいただくというのは、畏れ敬うので、畏れという字の方がいいかもしれません。そのような神に対する畏れ敬う心はどうしても必要なことです。
先週の礼拝では、10年前の3月11日のことを思い返しました。10年たってなおも、大きな痛みと復興の途上にあります。私どもが経験したことは、ある意味で、いわれなき苦しみです。だれも理由を見いだせないでしょう。人災と呼べるようなことがあるかもしれない。しかし、私たちが踏み込めない領域もあることを畏れをもって信じて、神の憐れみを祈り求めて、私どもも小さな働きに仕えて行くほかはありません。
そのように、いわれなき苦しみをも信仰を抱いて受けとめていくことがゆるされている。またそれと共に、いわれなき苦しみと全く逆なことですが、私どもはいわれなき恵みを受けている。ですから恵みを軽々しく受けてはならない。私ども国分寺教会は、受け取る理由のない、いわれなき恵みによって、ここに存在している。神の恵みに生きることから外れてはならないのです。
しかし、いわれなき神の恵みは、何よりも、主イエスが私たちの救い主として十字架の上に命を献げ、お苦しみくださったことです。その痛みと苦しみによって私どもは、もはや神から審かれて退けられることから救われたのです。滅びる道から恵みの道に生きるようにされた。すべてを赦され安心して、神の平安のうちに生きることができるのです。

神の恵みに畏れと感謝をもって私どもは、まず主なる神に仕えるのです。そして互いに仕えるのです。ですから、教会は、仕え合う神の家族であります。誰かが、一方的に、仕えてもらったり、ただ仕えるだけでいるのではない。まず、私どもに先立って、主イエスが命を献げて仕えてくださった。いやなおも、仕えて支えてくださっている。主の聖霊によって支えてくださっている。その主イエスのしもべとしての恵みに応答して、私どもは、仕え合うのであります。主イエスへの畏れと感謝と喜びをもって、仕え合っていきましょう。

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