2021年3月14日(日)礼拝式次第と説教 「選ばれしもの」

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝 2021 年 3月 14 日(日)
司式 牧師 願念 望
奏楽 浅井 義子

前 奏
招 詞    イザヤ書35章1-2節
讃 美 歌   17-1節 〝聖なる主の美しさと〟
交読詩     詩編145編3-13節
祈 祷
讃 美 歌    55-1節 〝人となりたる神のことば〟
聖 書     マタイによる福音書17章1-13節(新約32頁)
説 教    『選ばれしもの』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌    463-1節 〝わが行くみち〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福

 

説教 2021年3月14日(日)
「選ばれしもの」                            伝道師 佐藤倫子
マタイによる福音書 12章1-13節

■覆いが取り去られる
ペトロとヤコブとヨハネが、イエスに連れられて高い山に登った時、彼らの目の前でイエスの姿が変わりました。隠されていたことが、この瞬間だけ明らかにされたのです。この箇所は「主の変容」の出来事と呼ばれる箇所で、イエスが誰かを理解する大事な鍵となる場面です。それは、「人の子」として生きてこられた方が、覆い隠されていた「神の子」としての姿を見せられた出来事でした。「神の子」としての正体が完全に露わになるのは、復活の時です。それゆえ、この出来事は「復活以前の復活物語」とも言われています。
イエスは「インマヌエル」(マタイ1:23)と唱えられる方でした。「神は我々と共におられる」という別名を持つ方です。高い山でその姿が変わられたことは、「インマヌエル」なる神が、その名の通り目の前に露わにされたことに違いありません。「光り輝く雲が彼らを覆った」(マタイ17:5)時、彼らはその喜びに包まれました。モーセとエリヤは旧約聖書全体を象徴する、神と人の間に立って働いた人物です。その二人がイエスを認め、しかも彼らの真ん中にイエスがおられるのです。この光景を目にしたペトロは、何とかそれを長くとどめたいと思いました。
しかし、ペトロの申し出はまだ早すぎたのです。イエスにはまだ地上でなすべき事がたくさんありました。このときも、山の下でイエスを待っている人がいました。そして何よりも十字架にかからなければならなかったのです。イエスは神の子であると同時に神に選ばれしものとしての使命があったのです。

■明けの明星
後にペトロが書いたとされる手紙では、この出来事を「暗い所に輝くともし火」(2ペトロ1:19)と呼んでいます。それは、心の中の「明けの明星」でもあったのです。神がご自身を現されたこと、隠されていたことが露わにされたこと。暗きに輝く灯火のような、言葉に言い表せない経験をペトロはしたのです。この灯火はペトロの胸の内にだけ輝いて消える、そのような儚いものではありませんでした。ペトロの灯火は、2000年経った今でも私たちに受け継がれています。自分以外のまだ見ぬ誰かのために灯火を伝え続けること。ペトロもまた、イエスと出会い、自分の使命に気付かされたのです。

■一人ひとりの灯火
先週の木曜日、東日本大震災から10年が経ち、当時の凄惨な状況が再びメディアで大きく取り上げられました。その中で、「ごめんなさい 救助のヘリじゃなくてごめんなさい」というタイトルが付けられたNHKの記事がありました。2011年3月11日、午後3時54分。津波が街を吞み込もうとするその瞬間と、翌日の光景をヘリコプターから生中継したカメラマン2人のインタビュー記事です。災害の際、被災地の実態をいち早く伝え、救助や支援にもつながる情報を広く届ける役割を担うヘリ取材。今、目の前で起こっている現実を記録し続けなくてはいけないという使命を感じながら「助けられずにごめんなさい」という気持ちを胸にカメラを回し続けたこと。カメラの向こうに人がいることを見据えている人には「加害者」としての意識が生まれることを改めて感じた記事でした。そして、その後カメラマン2人は別々の道を歩まれることとなります。1人はNHKを退職し、美術作家として風化していく被災地を映像にして残し続ける道を。1人はNHKに残り、与えられた場所で被災地のその後を伝え続ける道を。それぞれの道は変わっても、見たもの、感じたことを後世にまで届ける使命を果たし続けておられるのです。それは自分で選んだというよりも、この事態に自分が選ばれたという自覚がこの働きを後押ししているのだと思います。
灯火を伝えるということも、同じことだと思うのです。ペトロも自分で選んだ道というのではなく、むしろこの光景を見てしまった者として、伝える道へと招かれたのです。私たちも、辛い現実の中で、ふと「ああやっぱり神様は生きておられる」「イエス様は私と一緒にいてくださる」という、きらりと光る瞬間を体験することがあるのではないでしょうか。これは良い体験をした時のこともあれば、神様なぜこのような重荷を担わせるのですか、と感じられるような深い苦しみの経験から来ることもあると思います。
しかしそれが、私たちの胸にともされている灯火なのです。神の業を見極めることができない人間にも、神はふさわしい時にその扉をそっと開き、栄光を垣間見せてくださいます。それが私たちの希望であり、慰めです。その場に、私たちも今、引き合わされています。暗闇にともる灯火となれ。私たちもまた選ばれているのです。

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