2021年3月7日(日)礼拝式次第と説教 「自分の十字架を負う」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝 2021 年 3月 7 日(日)
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞    ヨハネによる福音書15章 4節
讃 美 歌   8-1節 〝心の底より〟
交読詩    編 詩編63編1-6節
祈 祷
讃 美 歌    295-1節 〝見よ、十字架を〟
聖 書     マタイによる福音書16章13-28節(新約31頁)
説 教    『自分の十字架を背負う』 牧師 願念 望
讃 美 歌    483-1節 〝わが主イェスよ、ひたすら〟
信仰告 白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福

説教2021年3月7日(日)
マタイによる福音書16:13-28
「自分の十字架を負う」             牧師  願念 望

あるとき主イエスは、弟子たちにお尋ねになりました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか。」弟子たちは人々の言葉を伝えます。「洗礼者ヨハネだ。」「エリアだ。」「エレミヤだ。」「預言者の一人だ。」どれも、かつてあったことの繰り返しです。

主イエスはまた、弟子たちに向かって問われました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」この主イエスの問いかけは、私どもへの問いかけでもあります。マタイは教会が絶えず立つべき大切な問答として、主イエスと弟子たちの問答を記しています。ペトロが答えました。
「あなたはメシア、生ける神の子です。」

マタイはここまで、人となられた神の独り子としてのメシア(救い主)のことを記してきました。その意味では、かつて神から遣わされた預言者のひとりのような者ではなく、かつてなく今後もない、ただひとりの救い主(メシア:旧約聖書から来た言葉、新約聖書ではキリスト)として主イエスは私どものところに来られたのです。その信仰に教会は代々立ち続けてきたのです。

ペトロは正しい答えをしたのですが、主イエスのことが十分に分かっていたわけではなかった。主イエスの救いの道はまだ完成していなかった。十字架への道はこのときまだ途上でした。ですから、
「御自分がメシアであることをだれにも話さないように」命じられたのです。このペトロの信仰告白を境にして、主イエスはご自身の死と復活を話し始められます。「多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」ことをあらかじめ話されたのです。

何のため苦しみを受けられて救いの道を切りひらかれたのか。それは、私どもが主に罪赦されて、神との生きた関係に導かれるためです。それは、主イエス同様に、祈るときに天が開かれて、祈りの道が通じることでもあります。
主イエスが祈られたとき、そこには父なる神との生きた交わりがありました。独り子を十字架に献げて、私どもの罪の代わりに審くことは、父なる神にとって御心を引き裂かれる痛み、苦しみであったはずです。そのことを主イエスは知り尽くして祈られた。深く重い祈りであります。 ゲツセマネで十字架を目前に控えて祈られた祈りは、まさに父なる神の御心を思い、深く切に祈られた。しかしそのゲツセマネの祈りはすでにこの箇所においてもはじまっているのです。

祈りについて、ある北欧の神学者は、祈りは主イエスがいまもなお天において祈っておられるその祈りに心を合わせて祈ることだという意味のことを記しています。主イエスが祈っておられるそのかたわらで、私どもも心を合わせて祈るとすれば、祈りは願い事だけではなくなっていくのです。主の御心をたずね求めて、その御心に応えようとして祈るのが、主イエスと共に祈る祈りであります。
主イエス・キリストは、私どもが主イエスの祈りに連なるように、大切な御言葉を語りかけてくださいました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(24)

自分の十字架を負うとはどういうことでしょうか。
ある方は、生きていく上での苦労を思い浮かべられるかもしれない。病気になったり、思いがけないことが起こっても、祈ることをやめず、礼拝生活に生きようとすることは主の喜ばれることです。しかしそれは日々の苦労の中でも主に信頼して生きていくことであります。
ルターは「日々自分の十字架を負う」ことについてこのような意味のことを語っています。それは、主イエスの愛に生きるときに、すでに自分の十字架を負っているというのです。主イエスの愛に生きて、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛して生きるときに、もはや自分の十字架はどこにあるのか探す必要はないというのです。

神の愛に生きるときに、人をゆるすことができない自らの姿に向き合うことがあります。あるいは、自分をゆるせないこともあるかもしれません。また、自分にはそれを負う必要がないと思える誤解や課題を負うこともある。しかしそこでこそ主イエスの愛を知り続けていくのです。十字架の上に、主イエスが負う必要のないものを引き受けてくださった愛をさらに知り続けていくのです。そこに信仰生活の喜びがあるのです。「わたしに従いなさい。」と今もなお、主イエスは愛をもって招いてくださっているのです。

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