日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
主日礼拝 2021 年 1月 31 日(日)午前 10 時 30 分
司式 牧師 願念 望
奏楽 河野 美和子
前 奏
招 詞 イザヤ書30章18節
讃 美 歌 202-1節 〝よろこびとさかえに満つ〟
交読詩編 詩編119編9-16節
祈 祷
讃 美 歌 55-1節 〝人となりたる神のことば〟
聖 書 マタイによる福音書5章17-20節(新約7頁)
説 教 『完成するために』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌 481-1節 〝救いの主イェスの〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年1月31日(日)マタイによる福音書5:17-20
「完成するために」 伝道師 佐藤 倫子
■律法の完成者
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(17節)という主イエスの言葉は、マタイ福音書の中心テーマでもあります。律法と預言者は旧約聖書全体を意味する言葉。つまり「イエスは旧約の完成者である」というのが、マタイ福音書を貫く一つのイエス理解なのです。律法の完成者であるイエスの律法に対する振る舞いは、大変自由なものでした。律法学者たちの反対を押し切り、何もしてはならない安息日に病人を癒したり、徴税人・罪人といった、社会から見下され、交流が好ましくないといわれていた人々と共に食卓を囲んだり、皮膚病の人に触れたり、長血で苦しむ女性に触れられたり、律法によって引かれた境界線をイエスはいつも簡単に乗り越えていかれたのです。そのようなイエスの行為は、律法を重んじる人々からすれば、律法を破壊する行為と映ったでしょう。その自由な振る舞いは、主イエスに従う者たちの間でも、「律法は廃止された」と言い始める人々が出るほどでした。しかし、イエスは「律法の文字から一点一画が消え去ることはない」と言われます。イエスは律法を破壊したわけでも廃止したわけでもないのです。
■その本質
そもそも律法は、神に選ばれた人々に与えられたものでした。人々が律法を守って、神に選ばれたのではありません。神がまずイスラエルの人々を奴隷の状態から救い出されます。その救い出された民に十戒をはじめ、律法が授けられたのです。だから、イスラエルの人々にとって本来、律法を守るということは、神の契約の中に加えられるための手段ではなく、神の民として、神との契約の中での生き方であったはずでした。神の民になるための条件ではなく、神の無条件の選びの中で選ばれた民として、どのように生きるか。どう生きるべきか。そのことを定めたのが律法なのです。そんな律法が、いつしか神の救いを得るための条件のように使われていきました。自分たちだけが神に受容され、律法を守れない人々は排除するようなあり方に変わっていったのです。今も昔も、何につけ「○○主義」となる時に、問題が生じることが往々にしてあります。資本主義であれ、社会主義であれ、その原則が絶対化される時は注意が必要です。律法の本来の精神から離れ、律法そのものが神のようになり、律法という名の偶像を拝むことになっていったのです。イエスはその点を一貫して強く批判し、律法の精神、本質を回復しようと働かれました。それは「律法全体と預言者はこの二つの掟、神への愛と隣人への愛に基づいている」。つまり、律法の精神は、律法の本質は「愛」に集約されていることを繰り返し、語っておられるのです。何よりも神がまず私たちを愛してくださった。それが私たちの根本なのだ、と。それこそが私たちの始まりであり、土台なのです。
■共に歩む道を
この神が与えてくださる愛は旧約の時代、聖書が書かれた時代にとどまりません。今を生きる私たち一人一人にも神の愛は、注がれ続けているのです。今も昔も全ての土台は愛なのです。しかし、そんな愛に生まれ、愛に生きるはずの私たちは、ついついよそ見をしてしまいがちです。イエスが指摘される律法主義者たちと同じように、他者にばかり関心を向け、他者と比較し、時に非難しながら生きてはいないでしょうか。それは結局のところ、自分の物差しで誰かを測ろうとしているに過ぎません。イエスが来られたことによって、その時点で律法が完成したのではありません。愛の関係が完成したのではないのです。イエスは、私たち一人一人を用いて、神の国を完成させようとしてくださっています。私たち一人一人が互いに愛の関係を構築し続ける中で、律法は完成されていくのです。私たちもまた律法を完成させる大切な役割を担っています。先立つイエスが振り返りながら、私たちにかけ続けてくださる言葉があります。そしてその旅路には神が注ぎ続けてくださっている愛があります。誰一人欠けることはありません。完成に向かって、私たちは今日も一歩を踏み出し続けるのです。