2020年12月27日(日)礼拝式次第と説教 「あなたに出会えたから」

2020年12月27日

 

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

主日礼拝 2020 年 12月 27 日(日)午前 10 時 30 分
司式 牧師 願念 望
奏楽 三宅 さやか

前 奏
招 詞    イザヤ書60章1-2節
讃 美 歌   256-1節 〝まぶねのかたえに〟
交読詩編   詩編27編1-6節
祈 祷
讃 美 歌   275-1節 〝闇を行くものは〟
聖 書    マタイによる福音書2章1-12節(新約2頁)
説 教    『あなたに出会えたから』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌   278-1節 〝暗き闇に星光り〟
信仰告白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

説教 2020年12月27日(日)マタイによる福音書2:1-12
「あなたに出会えたから」               伝道師 佐藤 倫子

 

■あてのない旅

どこかに旅をする時、明確な目的地を定め、そこに向かって旅をするのが一般的です。まれに、あてのない旅に出ることもありますが、それはいずれ帰ってくる場所があるということを究極の目的と考えれば、目的地がないとは言い切れません。しかし、今日の聖書に登場する東方の学者たちは、目標はあれど、最終的な目的地を知らずに旅に出ているように思えます。彼らには、星が知らせてくれた新しい王を拝みに行くという目的がありました。しかも彼らはそれまで自分が培ってきたものを全て置いて旅に出たように感じられます。旅をするということ自体、簡単なことではありません。困難な旅が待ちかまえていようとも、彼らの決意は固かったのでしょう。ただ、その場所がいったいどこなのか、さっぱり見当もつきません。遠いのか、それとも近いのか、それさえわかりません。それでもなお、ただ星の導くままに、彼らは旅を続けます。不安よりも喜びに溢れていたのかもしれません。とにかく、あの星について行きさえすれば大丈夫、と安心感さえ覚えていたのかもしれない、と思います。

 

■常識が邪魔をする

ところが、あれほど星を頼りにしていた学者たちが、いざ目的地に近づくと、とたんに違う行動に出ます。学者たちには、一種の常識が働いたのではないでしょうか。星は確かにこの町の方向を指しています。新しい王が生まれるとすれば、それは王宮に違いない。王宮にまでたどり着けば、すぐに会えるだろう。最後の最後になって、自分の判断を中心に据えたのです。彼らはこの世の力に頼ろうとしたのです。もちろん、残念ながら、彼らのその試みは失敗に終わります。彼らは自分たちの犯した間違いに気づきます。自分たちの力で探し出したのだと思っていた星、見つけたと思っていた星。あの星の導きは計算でも偶然でもなく、何か特別の力が働いて見つけさせてくださった、気づかせてくださったのだとわかりました。だから彼らはすぐ、「新しくお生まれになった王はどこですか」とヘロデに向かって尋ねるのです。その問いに応えたのは、誰か特別な人間ではなく、聖書でした。神の言葉が、祭司長や律法学者の口を通して彼らに示されました。学者たちよりも遥かに以前から聖書に触れながら、彼らは神の思いに気づいていません。しかも、同じように聖書に聞きながら、自分の足で動こうとはしません。口では、「私も行って拝もう」と言いながら、この世の権力、この世の力、この世の業に執着しています。彼らは変わろうとしませんでした。学者たちは、神の力が自分たちを導いていたことを知ります。神の思いが指し示すとおりに行動した時、彼らの前に幼子が現れます。本当に神の思いに聞き従って初めて、彼らは当初の目的、新しく生まれた王を拝むことができました。

 

■あなたに出会えたから

拝むというのは、単純に、聖なるものを前にしてひれ伏すだけではありません。幼子と対面した彼らは、持参した宝、「黄金、乳香、没薬」を献げます。黄金は「力・権威」、乳香は「祈り」、没薬は「死」を象徴するとも言われますが、ある説では、これらは学者たちの商売道具だったといいます。古代世界で「占星術の学者」は、「天文学者」でもあり、「占い師」でもあり、また「魔術師」のような存在でもあったようです。「黄金、乳香、没薬」は、彼らがそうした仕事をする上で用いた高価な道具だったといいます。もしこの解釈が正しいとすれば、彼らは、今までの自分たちの生活のもとになっていたもの、これまでの人生を支えていた一番大切なものをキリストの元に差し出した、ということになります。「もう、宝ものはいらない」と。それは、イエスとの出会いこそが本当の宝ものであると気付いたからではないでしょうか。宝ものに執着する心、それは力や名誉や富にひれ伏す心と通じています。かつて一度はそのような判断に身を委ねた博士たち。しかしイエスと出会うことでその生き方が変えられたのです。彼らは、それまでの人生を象徴するもの、彼らのそれまでの生き方そのものを、イエス・キリストの前に献げたのです。すでにここに「別の道を通る」彼らの歩みが始まっています。イエス・キリストと日々新たに出会うことによって自分自身が変えられる。それこそが私たちが毎週の礼拝をささげる意味であり、目的です。自分の思いだけで独りよがりに歩んでいると道を間違ってしまう私たち。そんな私たちに「別の道」を示してくれるのが、イエスとの出会いなのです。

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