主の平安とお支えをお祈りしています。
日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
礼拝式次第 2020年9月6日(日)10時30分
聖霊降臨節第 15主日礼拝
司式 牧師 願念 望
奏楽 河野美和子
前 奏
招 詞 イザヤ書60章1-2節
讃美歌 51-1節 〝愛するイェスよ〟
交読詩編 詩編36編 6-10節
祈 祷
讃美歌 129-1節 〝私の望みは〟
聖 書 ヨハネによる福音書8章12-20節(新約181頁)
説 教 『命の光を持つ』 牧師 願念 望
讃美歌 518-1節 〝主にありてぞ〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福 牧 師
後 奏
説教 2020年9月6日(日)「命の光を持つ」
ヨハネによる福音書8:12-20 牧師 願念 望
主イエスは「わたしは世の光である。」と言われました。
「光」と聞いて、どんな「光」を思い浮かべるでしょうか。昼間に輝く太陽の光もありますが、夜の暗闇を照らす光があります。子どもの頃を思い起こすと、いまほど夜は、部屋の中も街灯も明るくなかったように感じます。だんだんと明るいことに慣れて、そのありがたみを失ってしまっているかもしれない。また、身の回りの明るさとと同じように、内側の明るさが増してきたと言えるでしょうか。私どもはいつの間にか、その内側を照らす光、心を照らす光をおろそかにしているかもしれない。
この朝の主イエスの言葉は、ある祭りの直後に語られました。「わたしは世の光である。」聞いていた人々は、その祭りで思い起こされていた「光」を知っていました。その「光」は、かつて旧約の民が荒れ野での生活をして故郷へと旅をしていたときのことです。主なる神が、夜の暗闇に輝く火の柱と共におられて彼らを守って導いてくださったのです。火の柱は身の回りを照らすでしょうが、人の内側までも照らしたでしょうか。火の柱と共に主なる神が共におられることを信じていくときに、その心に灯火がともされたでしょう。しかし、その祭りが盛大に行われる中で、彼らは、まことの光を、神の光をいつの間にか見失っていたのではないか。
主イエスは、自らが神の光、まことの光であることを示されました。「わたしは世の光である。」主イエスはどのように私どもを照らしてくださるのでしょうか。
この朝の箇所の最初に「イエスは再び言われた。」とあります。「再び」ということは、その前の話とつながっています。どんなことがあったかと言いますと、ある女性が、姦淫の現場でとらえられて人々に裁かれていました。しかも当時の人々が守っていたモーセの律法によれば「石で打ち殺せ」とあるが、あなたはどうするかと人々は主イエスに問いかけ迫ったのです。
主イエスは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7)主イエスの御言葉の光に照らされるようにして、人々は、年長者から始まって、ひとりまたひとりと立ち去っていきました。裁く資格のある者は誰もいないのです。裁くことができるのは主なる神のみです。主なる神ご自身である主イエスは、その女性に語りかけられました。「わたしもあなたを罪に定めない。」赦しを与えられたのです。しかし何をしてもいいということではない。主イエスは「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われて、彼女をとらえていたものから解き放っていかれたのです。
人々の裁きにさらされていた女性は、「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われて赦しを受けたときに、深くその罪を自覚して魂の奥底まで照らされたはずです。魂の奥底が照らし出されたときに、その闇は光に変えられた。大きな喜びの光に生きたのです。「わたしは世の光である。」と主イエスが言われたときに、主イエスという光は、闇を光に変えてくださるのです。ご自身の光の中に、私どもを共に立たせてくださるのです。主イエスの光は救いの光、喜びの光です。
主イエスがどのように、ひとりの女性と向き合って行かれたかを思うときに、主イエスの御言葉とつながってきます。「わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。」主イエスの裁きは真実です。それは、罪に定めて退ける裁きではなく、私どもを照らして罪の赦しに立たせてくださるものです。人間的に裁かれるよりも、私どもは主イエスの赦しを信じる中で、深く魂を照らされて罪を自覚し、悔い改めに生きることができるのです。闇を光に変えてくださるのです。
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」世の光である主イエスに照らされて生きるだけではなく、「命の光を持つ」とさえ約束されました。
世の光は、私どもだけではなくすべての人を照らしていく。人々が裁きにさらしたひとりの人をも、主イエスは世の光として照らしていかれた。赦しを与えられた。闇を光に変えられて、小さな光として生きるようになったのです。
私どももまた、本来神の光に照らされて赦しを受ける資格はないのです。主イエスは、だれをも裁いて退けようとはしないで、ご自身の光の中に立たせて光の子として生きるように導かれる。救いの光、喜びの光に生かしてくださる。
主イエスを信じ、その御言葉を糧として生きる者は、世の光である主イエスの、光の子として生きるのです。それぞれ小さな光ですが、その光は主イエスの光から来るのです。主イエスという光に生かされて、私どもも命の光を持って生きる喜びが確かなものとされていくのです。