2020年8月30日(日)礼拝式次第と説教 「自由への道」

 

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年8月30日(日)10時30分
聖霊降臨節第14主日礼拝
司式   伝道師 佐藤 倫子
奏楽   内田 直美
前 奏
招 詞     ローマの信徒への手紙5章5節
讃美歌     202-1節 〝よろこびとさかえに満つ〟
交読詩編  詩編87編 1-7節
祈 祷
讃美歌    408-1節 〝この世のもので〟
聖 書     ローマの信徒への手紙7章1-6節(新約282頁)
説 教     『自由への道』    伝道師 佐藤 倫子
讃美歌     538-1節 〝あなたの道を〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福   伝道師
後 奏

 

説教 2020年8月30日(日)「自由への道」
ローマの信徒への手紙7章1-6節               伝道師 佐藤 倫子

■律法主義的な生き方

私たちは、普段から「律法に縛られて生きるのは窮屈だ」と言いながらも、実は、律法的な生き方を好むものです。それは一番生きやすい生き方だから。ほんの少し、自分の良心とか感覚を鈍くさせさえすれば、律法的な生き方はそれほど苦しい生き方ではありません。少なくとも、それはわかりやすい生き方と言えるでしょう。律法を守れるか、守れないかはともかく、一つの努力目標がはっきりしているからです。いわば、マニュアルや免罪符を手にしているような生き方なのかもしれません。そして、一度、律法主義的な生き方に捉えられると、そこから逃れることは難しいことです。律法は、私たちに「あなたの生活はよろしい」と言ってくれます。だから、そこから逃れることは難しい。ちょうど、よい大学に行くことが、必ずしも将来の幸福な人生を保証してくれるわけではないことがわかっていながらも、だからといって受験戦争から逃れられない、逃れることが不安になるのと同じようなものです。私たちは、自分に対して、また自分の人生に対して「よし」と言ってくれる存在を求めてさまよいながら生きているのです。

 

■神の思いを固定化する

律法を文字として読む時に、そのような律法主義的な生き方が生まれるのだ、それがパウロがこの手紙の中で言っていることです。そもそも、律法とは神の法です。大切にして問題があるはずのものではありません。むしろ、積極的に大切にすべきものです。その律法を通して神の語りかける声を聞きます。その言葉から、神の思いを読み取らねばならなりません。たとえば、「殺してはならない」という法に対しては、その奥にある「隣人を自分のように愛しなさい」という思いを聞き取っていく必要がある。それが律法と向き合うということです。自分に語りかけられた生きた神の言葉として律法の言葉を受け止めることが大切です。しかし、自分の義だけを求める人は、そうした自分の思い通りにならない他者の声を聞くのが怖いものです。だから、神の言葉である律法でさえも表面的なものにしてしまいます。書かれた文字だけに限定して、神の思いを固定化してしまうのです。律法を通して生ける神の声を聞くのではなく、律法に縛りつけられる時、神に仕えるのではなく、律法の文字に仕えることになります。そして、固定化されてしまったその「文字」は、いつも「古い」存在となるでしょう。文字が書かれた場所に、その時間に私たちを縛りつけます。そして、文字は私たちを固定化し、教条的にする。そのような生き方は、いつも古さがつきまとうのです。

 

■新しく、自由に

それに対して、「霊」によって生かされて、生ける神に仕える生き方はいつも「新しい」。これは、律法が古くて、聖霊が新しいという意味ではありません。大切なことは、聖霊よって生かされている時、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、『内なる人』は日々新たにされていきます」(コリントの信徒への手紙二4:16)という信仰なのです。過去における失敗は誰にでもあることです。私たちは絶えずその失敗と失敗の間に挟まれて生きています。そして、いつまで経っても神と共に歩むことのできない存在だと感じられます。反省することはとても大切です。しかし、そこにばかり引きずられていると、足下が見えなくなってしまいます。誰も自分を「よし」と認めてくれないと思いこみ、簡単に答えを与えてくれそうな律法主義的な生き方へと逆戻りしていくのではないでしょうか。聖書のいう「新しい生き方」とは、過去の自分ではなく、今の自分がどのように生かされているかが問題となる生き方です。過去の自分がどうであったかよりも、明日の自分の生き方が問題となります。古い自分に固執するのではなく、新しく生まれ変わった存在として生きるのです。その時、自分だけを中心とする生き方から解放され、自由になります。自分だけが大切だという思いから解き放たれるのです。そして、本当の意味で他者に「仕える」生き方ができるようになる。それは勿論、神に仕えることであって、隣人としての他者に仕えることでもあるのです。マニュアル化された画一的な生き方ではなく、それぞれのやり方で、生き方で、神と共に生きること。それが「“霊”に従う新しい生き方」です。自分の内に霊が働き、神の思いが自分へと迫っていることを感じる生き方。そして、その思いに応えたいと願う生き方。私たちはいつも、万全なまま生きられるわけではありません。常に反省と後悔が私たちにはつきまといます。しかし、私たちは確実に今、神によって生かされているのです。神によって私たちの生は「よし」とされています。生ける神と共に、新しく自由な道が目の前に広がっています。共に手を取り合って、その道を歩んで参りましょう。

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