2020年8月2日(日)礼拝式次第と説教 「天からのかて」

2020年8月2日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年8月2日(日)10時30分
聖霊降臨節第 10主日礼拝
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  河野美和子
前 奏
招 詞     イザヤ書55章6-7節
讃美歌     51-1節 〝愛するイェスよ〟
交読詩編  詩編65編 1-5節
祈 祷
讃美歌    495-1節 〝しずけき祈りの〟
聖 書     ヨハネによる福音書6章26-35節(新約175頁)
説 教     『天からのかて』    牧師 願念 望
讃美歌     505-1節 〝歩ませてください〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020年8月2日(日)「天からのかて」
ヨハネによる福音書6:26-35               牧師 願念 望

群衆があるとき主イエスを捜していました。それは、パンの奇跡のあとのことです。主イエスの生涯とその御言葉をつづった福音書は四つあります。そのすべてに記されている奇跡は、ただ一つで、それがいわゆるパンの奇跡です。四つの福音書の中で、ヨハネ福音書は最後に記されました。迫害の最も厳しい時代だと考えられます。福音書が中心として伝えた主イエスの十字架の死と復活の救いと共に、いわゆる奇跡がいくつも記されていますが、ヨハネはパンの奇跡だけは、三つの福音書に続いて、どうしても省くことはできず重ねて語り直すように記したのです。主イエスが救い主であることのしるしの一つです。

私どもは、主イエスの十字架の死と復活の救いと言うことがありますが、決まり文句のようにしてはならないのです。それは尊い命が献げられた、それほどに主は私どものことをひとりひとりかけがえのない者として、愛してくださっているからです。主イエスが十字架にかけられ審かれたのは、私どもの受けるべきものを代わりに受けてくださった。そして主イエスは死からよみがえられて今も生きて働いておられると教会は信じてきました。しかし教会のひとりひとりが絶えず立ち帰るべきことを、主イエスは語りかけておられます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(29)私どもが、少しでも信じる信仰を、主イエスを救い主と仰ぐ信仰があるなら、それは神の業にあずかっているのです。今こうして礼拝を共に献げていること自体が、あらゆる奇跡にまさって、主なる神が私どもを愛してくださっている、とらえてくださっていることを心に刻んでいくべきであります。

さて人々は主イエスを探していました。パンの奇跡のあとです。そしてやっと捜し当てたとき、主イエスは言われました。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(26)群衆は主イエスからパンを受けとって満腹した。食べるものがなくてこのまま帰すわけにはいかないと、主イエスはわずかなパンと魚を祝福して、おびただしい人々を満たしてくださった。救い主のしるしをあらわしてくださった。しかし人々は食べて満腹したことにとどまっていたのです。さらには、こんな人なら、自分たちの思い通りに働いてくれる王にしたい、と祭り上げようとした。主イエスは信仰の道から外れていく彼らのもとを去られました。追いかけて捜し当てた群衆に主イエスは、「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われました。パンの奇跡がしるしとして、信仰を抱くことにはならなかった。ヨハネの教会は、どんなにすごい奇跡を見たとしても、それだけでは救いに至る信仰が生まれないことを教えられていったはずです。

主イエスは「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われましたが、確認しておくべきは、主は生きていく上でパンが必要なこと、食べるものが必要なことを、誰よりも大切にして心にかけてくださっている。だから、主イエス自ら、パンを祝福して大勢の人々を満たしてくださったのです。

主イエス・キリストがこのように祈りなさい、と教えてくださった主の祈りを思います。主の祈りは、前半は神のことを祈り、後半は人の必要を祈っていると言われますが、その後半の冒頭は「われらの日用のかてを今日も与えたまえ」(私たちの日ごとの食べ物を今日も与えてください)です。罪の赦しを祈ることに先立って、日ごとの食べ物を与えて生かしてください、と祈っているのです。

改めて思うことですが、日々に生きていく、また生かされていく中で、日ごとの食物が主なる神によって与えられて自分は生きている、という信仰の思いが、ともすれば薄れているのではないでしょうか。主から与えられ、支えられなければ今日のひと日もないと、心から思うことに乏しいのではないでしょうか。
日ごとに神様から食べるものを与えられて生かされている、そのことがしっかりと心に受けとめられていく中でこそ、主イエスが言われた「わたしが命のパンである」(35)という御言葉が、神の生きた御言葉となるのです。

主イエスは私どもの命のパンです。主イエスは、日ごとのパンを与えて生かしてくださると共に、その御言葉のかてによって慰め、救いに生きる者とならせ続けてくださる。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(35)とはそういうことです。「決して飢えることがなく、・・・決して渇くことがない」と約束してくださったように、日々に食し、信仰を抱いて祈ることは、そこでこそ神の業にあずかっているのです。その神の業、愛の業が、私どもを通して広がるように主は「働きなさい」(27)とさえ言ってくださる。私どもを主が必要としてくださっている。主は私どもを用いることがおできになるのです。

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