2020年7月12日(日)礼拝式次第と説教 「主が支えてくださる」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年7月12日(日)10時30分
聖霊降臨節第 7主日礼拝
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  内田直美
前 奏
招 詞     イザヤ書46章3-4節
讃美歌     12-1節 〝とうときわが神よ〟
交読詩編  詩編116編1-4節
祈 祷
讃美歌    141-1節 〝主よ、わが助けよ〟
聖 書     ヨハネによる福音書4章46-54節(新約171頁)
説 教     『主が支えてくださる』    牧師 願念 望
讃美歌     484-1節 〝主われを愛す〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020年7月12日(日)ヨハネによる福音書4:46-54
「主が支えてくださる」                牧師 願念 望

聖書の読み方を教わったことがあります。手で触れるように読んでみなさい、と言われました。手で触れてみて、ざらつくような箇所に大切な語りかけがあるというのです。それは、聖書を読んでいるときに、心に引っかかるような主イエスの言葉に、かえって聞き取るべき語りかけがあるということです。

この朝与えられている箇所をご一緒に読んで、お一人お一人から、その手触りのような感想や疑問をお話しいただきたい思いがあります。
一人の父親が、病気で死にかかっている息子をいやしてほしいと、主イエスのもとに来ています。ちょうど、ガリラヤのカナに来られたことを知って、近隣のカファルナウムから必死な思いでやって来たことでしょう。
神様に何かを心から願うこと、助けてほしい、いやしてほしいと祈ることは、ゆるされている大切な祈りです。今私どもも、コロナ渦が収まらない中、主の守りと終息に向かうように祈っています。また、このたびの豪雨の被害のために主の助けを祈っています。主もまた私どもの祈りを受けとめてくださり、共に生きて働いてくださっていることを信じています。むしろ私どもの祈りに先立ち、知り得ないところにおいても、主が働き支えてくださっているのです。
さて、主イエスは遠くから駆けつけた王の役人である父親と、その息子のすべてをご存じであったはずです。その切なる思いに寄り添っておられた。しかし「息子をいやしてくださるように頼んだ」(47)父親に対して、主イエスはすぐにいやしを行われなかった。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」(48)と言われました。何か、必死な父親を突っぱねるような言葉に聞こえて、心に引っかかります。主イエスは何を語りかけておられるのか。
ヨハネは、この主イエスの言葉を、父親に対してだけではなく、自分たちの教会への語りかけとして、いつの時代にも聞くべき主の御言葉として記しているのです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」しるしや不思議な業を見ることによる信仰の問題があります。それは、もっと確かなしるし、もっとすごい不思議な業を見たいという誘惑に陥って、どこまでいっても満足できない、人の弱さ、罪深さがそこに浮き彫りにされていきます。自分が納得のいくように神が動いてくれなければ信じない、という思いさえ見えてくるからです。
もちろん、主イエスのもとに来た父親は、主イエスが語ろうとされたことの問題を理解していなかったでしょう。しるしや不思議な業を見ることによる信仰にとどまっているとも思っていなかった。ただ息子をいやしてほしい、ただそれだけだったでしょう。しかし主イエスは、この父親と息子、その家族が、ただ病がいやされて喜ぶことに終わらない、主イエスが与える信仰に生かそうとされたのです。救いを与えようとされた。そのために世に来られた「世の救い主」だからです。ですから、不思議な業を見ることによる信仰から引っぱり出すように言われました。
「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」(50)「息子は生きる」というのは、「息子は生きている」「息子はいやされている」という意味です。父親は、主イエスの言われた言葉を信じて帰って行きました。もともと主の御言葉が現実となるという信仰があったということではないでしょう。主イエスの語りかけによって父親に信仰が生まれたのです。
家に帰る途中で、僕たちが迎えに来て、息子が生きていることを教えてもらいました。そのいやされた時刻は、ちょうど主イエスの御言葉の時と同じだったと知るのです。王の役人とは、おそらくユダヤ人ではない異邦人で、もともと救い主を待望する信仰に生きていなかったでしょう。しかし彼もその家族もこぞって、救い主を信じて生きるようになったのです。サマリアの町の人々がそうであったように「この方が本当に世の救い主であると分かった」(42)喜びに生きたのです。主がすべての人を救いに招いておられる一つのしるしともなったのです。

聖書を読んでいるときに、心に引っかかるようなところに、かえって聞き取るべき語りかけがあると言いました。その意味では、まだ引っかかりは残っています。それは、この父親は、結局息子がいやされて信じたのです。おそらく父親と息子は、この先、願い通りにいかなったことがたくさん起こったでしょう。息子も、生きながらえてこんなひどい現実を見るなら、と思ったことがあるかもしれない。その度ごとに、しるしや業を見ることによらない信仰に立たせていただいたでしょう。

私どももそうですが、この当時も、願うことがその通りにならなかった者は大勢いたのです。そのときに、ヨハネの教会は、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」という主の愛の御言葉を思い起こして、ゆだねていった。愛の御言葉と言ったのは、しるしや不思議な業を見ることから、主イエスが引っぱり出してくださるからです。主が共に生きて私どもを救い主として受け入れてくださることにまさる奇跡、祝福はないのです。主に信頼して祈りつつ、いかなることがあっても主に結ばれた祝福はつきないこと、主と共に生きていることを信じてゆだねていきましょう。

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