2020年7月5日(日)礼拝式次第と説教 「聞いて分かる喜び」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年7月5日(日)10時30分
聖霊降臨節第 6主日礼拝
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  河野美和子
前 奏
招 詞     イザヤ書55章8-11 節
讃美歌     1-1節 〝主イェスよ、われらに〟
交読詩編  詩編 126 編
祈 祷
讃美歌    51-1節 〝愛するイェスよ〟
聖 書     ヨハネによる福音書4章39-42節(新約170頁)
説 教     『聞いて分かる喜び』   牧師 願念 望
讃美歌     458-1節 〝信仰こそ旅路を〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020年7月5日(日)ヨハネによる福音書4:39-42
「聞いて分かる喜び」                牧師 願念 望

私どもは、聖書を日本語で読むことができる幸いが与えられています。聖書はもともとどんな言葉で書かれていたかというと、先ほど朗読したヨハネ福音書を含む新約聖書は、ギリシャ語です。ただ、ギリシャの哲学者たちが使ったようなものではなく、コイネーと呼ばれる、普段人々が使っていた口語のギリシャ語で、読み聞かせてもらえば、誰もが分かるように書かれました。
聖書を日本語に翻訳するときには、ひとつの考え方として、当時の人々が読み聞かせてもらったときに理解した、同じ理解が、日本語でも与えられるようにということです。これはどこまでいっても完成はないのですが、目指す価値がある。それは、私どもの生涯を変える救いが示されているからです。
当時の人々が理解した同じ理解、ということでは、この朝与えられている箇所は、翻訳の限界を超えた言葉が記されていると思います。どうしても当時の人々の思いや状況にふれていく必要があるからです。

39節に「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったすべてのことを言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」とあります。
何が翻訳しきれないのか。それは、「多くのサマリア人は、・・・イエスを信じた」という衝撃が訳しきれないのです。どういうことかと言いますと、ここへと到る一人の女性と主イエスの出会いを含めてお話ししますが、当時、ユダヤ人とサマリア人はもともとは同じ民族でありながら、全くの不信関係にあった。主イエスはユダヤ人としてお生まれになったのですが、南に位置するユダヤ人と北に位置するサマリア人は互いを避けていた。とくにユダヤ人が旅をするときには、サマリアを避けて遠回りをしていた。そんな時代に、ユダヤ人として生まれた主イエスはサマリアに旅をされた。しかも一人の女性に頼んで、水を飲ませてほしいと願われた。それだけでも当時あり得ないことでしたが、この女性は、昼間の暑い時間に、人目を避けて遠くの井戸にくみに来ていた。普通は朝や夕方の涼しい時間に来て、いわゆる井戸端会議をして帰って行く。彼女はそこに加われなかった。主イエスが「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」と言われた事情が彼女を一人にしていたのです。具体的な事情はヨハネ福音書は明らかにしていません。
しかし明らかなのは、主イエスがそのような失われたような存在を愛して、救いを与えていかれたということです。弟子たちも、つまずいてしまいそうなほどに、主イエスのなさったことに衝撃を受けたはずです。しかもその彼女が、ここで言わば伝道者として働いて、多くのサマリア人が信仰を抱いたのです。

さて、「多くのサマリア人は、・・・イエスを信じた」と聞いたとき、本来、救い主を待ち望んでいたはずのユダヤ人に先立って、それが起こったということです。ユダヤ人が神の救いの計画から外れていると思い込んで、さげすんでいた人々です。逆にサマリア人もまた、ユダヤ人を憎み受け入れていなかった。そんな時代に、「多くのサマリア人は、・・・イエスを信じた」ということは、だれも乗り越えられない障壁を壊して、救いを与えてくださったお方がいるということです。

とても信頼するある神学者が書いていることですが、当時のヨハネの教会には、サマリア人が大勢いたのではないかというのです。ヨハネの教会で、サマリア人もユダヤ人も、同じキリスト者として生きていた。ギリシャ人もいたでしょう。いずれにしても皆がその違いを受け入れながら共に、「この方が本当に世の救い主であると分かった」喜びに生きていたのです。なぜ分かったのか。それはこの箇所にあるように「イエスの言葉を聞いて信じた」からです。シカルの町のサマリア人たちは、主イエスの元に集まってきて、「自分たちのところにとどまるようにと頼んだ」(40)のです。二日にわたる滞在で、主イエスから御言葉を聞いて信じていった。主イエスは女性に井戸端で話されたように「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(14)と約束されたことでしょう。聞いて信じたそのことは、ある意味で私どもと全く同じで、こうして礼拝に集い、共に聖書から主の語りかけを聞く中で、信仰を与えられ続けているのです。主イエスが本当に世の救い主であると知り続けているのです。

信仰は主なる神が与えてくださるものです。ヨハネの教会の時代も、今もなお変わらず、主なる神が、聖書の言葉、イエスの言葉を通して語りかけ、救いを与えてくださる。「この方が本当に世の救い主であると分かった」という告白を受け継がせてくださっているのです。
ヨハネ福音書では、主イエスのいわゆる奇跡が記されています。そのような奇跡を通して信じる人々も起こされました。しかし、ここでは、いわゆる奇跡と呼ぶことはなさっていない。もちろん一人の女性の境遇を言い当てたことはあるかもしれません。しかし二日にわたって滞在し、人々が信仰を抱いたのは、ただ主の言葉によったのです。これは特筆すべきことです。ヨハネも意識したことでしょう。

初代教会から時がたち、ヨハネ福音書が記された頃は、いわゆる奇跡ではなく、ただひたすら主の言葉によって信仰が受け継がれていた。どうして信じることができるのか。それは、主なる神が確かに共におられ、働きかけておられるからとしか言いようがない、御言葉の奇跡に生きていたのです。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と約束された主の御言葉の奇跡を、私どもも受け継いで生きている。聞いて信じていく恵みの重さを、ヨハネの教会以上に、私どもは知るべきかもしれません。ヨハネは、こんなにも決して枯れない泉がなおも受け継がれているとは思わなかったでしょう。礼拝の恵みの中で、いまなお枯れない御言葉の泉に共に生かされてまいりましょう。

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