2020年6月21日(日)礼拝式次第と説教 「喜びの告白」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。(6月中継続します)
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。(7月からは、ひと月に一回録画を掲載します。7月は5日(日)を予定。)
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年6月21日(日)10時30分
聖霊降臨節第 4主日礼拝
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  内田直美

前 奏
招 詞     イザヤ書55章6-7節
讃美歌     56-1節 〝主よ、いのちのパンをさき〟
交読詩編   詩編 16 編7-11 節
祈 祷
讃美歌    141-1節 〝主よ、わが助けよ〟
聖 書     ヨハネによる福音書3章27-30節(新約168頁)
説 教     『喜びの告白』   牧師 願念 望
讃美歌     475-1節 〝あめなるよろこび〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020年6月21日              牧師 願念 望
「喜びの告白」 ヨハネによる福音書3:27-30

最近、ある花の名前が気になりました。アガパンサスという花です。アガペーという聖書で神の愛を表す言葉と関係があるのではと気になりました。調べると、ギリシャ語でアガペー、愛を意味する言葉と、アンソス、花を意味する言葉がつながって、アガパンソス、愛の花という意味だそうです。
改めて礼拝堂の横にあるアガパンサスを見ると、花の株が増えて大きくなっていると感じました。そのときにはっと思ったのですが、花の株が増えて広がるように、神の愛も増えて広がるのだろうか。

今までよく語ってきたことですが、神の愛は変わりなく、いつまでも続く、滅びることはないのです。しかし神の愛が増えて広がることを思い巡らしました。それは神の愛は限りないということです。ただ、神の愛が、とらえきれなく限りないものであることを信じていても、今もなお神の愛は一人一人に与えられて広がる中で、神の愛の限りなさが現実となっていることを思わされました。私ども一人一人が、主なる神を信じ、主イエスを愛して生きていく中で、神の愛が増えて広がり、神の愛の限りなさが現実となっていることを思うと、うれしくなりました。自分のような者も、神の愛が限りないことが現実となっていくために、主が用いてくださるのです。私どもはそれぞれ、つたなくまた弱さがあり、何より主に赦されながら生きている。しかしそのように神の愛を受けて、信仰に生きることは、神の愛が限りないことが現実なったいく一端を担わせていただいているのです。
そう思うと、ヨハネが告白した喜びと、つながる思いがしました。

洗礼者ヨハネは、救い主イエスの道を準備した、と言われます。
ヨハネは、救い主が来る前の最後の預言者と言われることもありますが、主イエスを指し示したのです。ヨハネは悔い改めの洗礼を授け、おびただしい人々がヨハネのもとへと集まって、洗礼を受けました。人々の中には、ヨハネがメシア、救い主ではないかと思う者もたくさんいたようです。聖書が告げてきた、来たるべき救い主が自分かもしれないと人々から思われたことは、とても光栄なことですし、ある意味で、大きな誘惑を受けたとも言うことができます。
ヨハネのあとから伝道を開始した、主イエスとその弟子たちのもとへと、人々が大勢集まるようになりました。ヨハネの弟子たちは「みんながあの人の方へ行っています」(26)と、素直に喜べない、むしろ悔しい思いであったと思われます。ヨハネは告げました。
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」(27)自分は何かを成し遂げているようでありながら、与えられ用いられているに過ぎない。自ら誇るべきものは元々もっていない。むしろ働かせていただいた感謝と喜びがあるのみだ。ヨハネは、自分についてきていた弟子たちにも「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」という喜びに立ってほしいと心から願ったでしょう。
ヨハネははっきりと「自分はメシアではない」「自分はあの方の前に使わされた者だ」と言って、主イエスを指し示したのです。ヨハネは自らを花婿の介添人と自覚しました。花婿は主イエス・キリストのことです。花嫁は、聖書では教会のことを意味します。教会がキリストの教会として結びあわされて一つとされる。私ども一人一人が、キリストと一つにされて、その永遠の命、限りない神の愛に生かされていく、そのときが来たことをヨハネは見て、喜びにあふれたのです。
おそらくヨハネは、ひとりの人間として、自分の周りにいた人たちがごっそりと、イエスの方へ集まることに、さみしさをおぼえたでしょう。うらやむ思いさえ否定できなかったのではないか。しかしその人間的な思いや罪深さをはるかに超えて、神の愛の働きがあったのです。ヨハネは喜びで満たされました。主イエスが栄えて、神の愛が一人一人に与えられ、増え広がることを、ヨハネはこの上ない喜びとしました。「大いに喜ぶ」というのは、喜びに重ねて喜ぶという意味合いです。ヨハネは喜びに喜びを幾重にも重ねて告白しました。
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30)
「あの方」とは明らかに主イエスのことですし、「わたし」は洗礼者ヨハネのことです。ヨハネは、自分を花婿の介添人、すなわち友人として自覚しました。ヨハネだけではない、主イエスは「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15:15)と弟子たちに、教会の私どもに語ってくださるのです。さらには「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(15:13)と言われたことは、十字架に現された、限りなく広がる、今もなお与えられている神の愛です。「あの方は栄え」の「栄える」は、増えるという意味でもあります。「衰える」は減じるという意味です。私どもは衰え、やがて地上の旅路を終えるときが来る、限りある存在です。しかしその私どもが友として、教会として、主イエスに結びあわされているのです。主イエスの友として、主イエスの愛が広がっていることを喜びとしているでしょうか。私どもが出会う、あの方のためにもこの方のために、主が命をささげられたことを信じて、主の愛が広がるように祈っていきましょう。

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