2020年6月14日(日)礼拝式次第と説教 「光である神の方へ」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。(6月中継続します)
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。(7月からは、ひと月に一回録画を掲載します。)
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年6月14日(日)10時30分
聖霊降臨節第 3主日礼拝
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  河野美和子
前 奏
招 詞     イザヤ書40章28-29節
讃美歌     55-1節 〝人となりたる神のことば〟
交読詩編   詩編 86 編1-4節
祈 祷
讃美歌    300-1節 〝十字架のもとに〟
聖 書     ヨハネによる福音書3章16-21節(新約167頁)
説 教     『光である神の方へ』  牧師 願念 望
讃美歌     504-1節 〝主よ、み手もて〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020 年6月14(日)          牧師 願念 望
「光である神の方へ」 ヨハネによる福音書3:16-21

聖書の中には、とても有名な聖句がいくつもあります。その中でもとくに大切にされてきた、黄金の聖句と呼ばれるものがあります。ゴールデンテキストです。その金の聖句の一つが、3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16)
マルティン・ルターもこの聖句をとても愛していました。この聖句に、福音が凝縮されていると語っていたようです。ルターもそうだったでしょうが、主イエス・キリストの福音を思い起こす御言葉として、絶えず立ち返り、心に刻む必要があるのです。ルターは、まず暗唱するべきだと言いました。暗唱して心に刻み、主の御言葉が私どもの体の一部となるように生きていくのです。
ルターは、こんな意味の言葉を遺しています。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、悔い改めよ、と言われたのは、キリストを信じる者の全生涯が悔い改めであることを求めておられる。」「悔い改める」というのは、聖書では神に向き直る、光である神の方へ向き直るということです。神の方へ向き直ることは、具体的には、御言葉によって神の愛を示されて、向き直っていくのです。金の聖句に代表される御言葉をとおして、私どもの方に絶えず御顔を向けてくださっている神を知り、それによって私どもも向き直って悔い改めていく。それは、全生涯を通してのことであるのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」主イエス・キリストは、神の独り子であって、ほかには元々神の子はいない。しかもヨハネ福音書が冒頭で「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)と語るように、主イエスは父のふところに抱かれた「独り子である神」なのです。神の愛を受けるにふさわしい存在ということです。福音は、独り子が受けるべき神の愛を、私どもにも与えてくださったと言うことができます。私どもがそれを受けるにふさわしいということではなくて、むしろふさわしくない者に救いを与えて愛してくださったのです。私どもが神を信じて愛していくその前に、神は世を愛して命を献げ、救いの道を造ってくださったのです。
「お与えになった」というのは、十字架に引き渡されたという意味合いを含む言葉です。ですから単に世に来てくださったということではなくて、十字架のうえに、神の審きを受けてくださるために来てくださったということです。そのことがはっきりと語られています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(17)
「世を裁くためではなく」とあるのですが、ある方は疑問を持たれるかもしれません。この箇所を読むと、光である主イエスが世に来られたことによって、闇が明らかにされ、それがすでに神の裁きになっているとあるからです。光よりも闇の方を愛して、光の方へ来ようとしなかったとある。光を捨てたのです。それは、明らかに主イエスを十字架にかけて殺したということです。弟子たちもまた、主イエスを捨てて、逃げてしまった。
しかし「世を裁くためではなく」とあります。それは、弟子たちが、光を捨てた者たちが、さらには私どもが受けるべき審きを、御子が負ってくださったからです。「世を裁くためではなく」、裁かれるべき者たちの受けるべきものを、独り子自ら負ってくださったのです。

「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。「滅びる」という言葉は、ヨハネ福音書の別の箇所では、失われているという意味で使われています。有名なたとえですが、百匹の羊をもっている羊飼いが、見失った一匹の羊をどこまでも探し求めていく、その姿に、神の愛が示されている。神は一人も失われないように絶えず働いておられる、それが世を愛された、世を愛しておられるということです。
いま、大きな問題、痛みとなっている、アメリカで押さえつけられた黒人の方が亡くなったことは、一人も失われないように働いておられる神の愛に反することです。神は一人も失われないように絶えず働いておられる、それが世を愛された、世を愛しておられるということです。私どもも、その神の愛につながって生きていく、それが全生涯を通しての悔い改めであります。

「永遠の命」という言葉は、ヨハネ福音書では17回も記されています。ほかの三つの福音書に比べてとても多いので、永遠の命の福音書と呼ばれている。しかし「永遠の命」というのは、時間の長さでとらえようとすると分からなくなりますし、ヨハネも長さの意味で記したのでないと思われます。ヨハネはこう記している。主イエスの祈りの言葉です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17:3)神の救いを受け取り、神の愛につながっていくことそのものが、永遠の命を生きている。
罪も悪も、いつかは滅びるときが来ます。それは聖書が告げることです。しかし神は滅びない。神の愛は滅びることはないのです。滅びない神の愛に生きることは、いかなるものも奪うことはできないのです。主イエスが十字架に殺されても、神の愛を殺して滅ぼすことはできませんでした。主イエスは復活され、いまも共に生きて神の愛に生かそうと働いておられる。だれも神の愛を滅ぼすことができないことを信じて、たえず光である神の方へと向き直り続けていきましょう。

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