2020年5月31日(日)礼拝式次第と説教 「主が共に生きておられるから」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年5月31日(日)10時30分
聖霊降臨節第 1主日 ペンテコステ礼拝
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  河野美和子
前 奏
招 詞     詩編91編1-2節
讃美歌     343-1節 〝聖霊よ、降りて〟
交読詩編   詩編103 編1-2節
祈 祷
讃美歌    530-1節 〝主よ、こころみ〟
聖 書     ヨハネによる福音書14章15-19節(新約197頁)
説 教     『主が共に生きておられるから』  牧師 願念 望
讃美歌     342-1節 〝神の霊よ、今くだり〟
献 金
主の祈り
報告
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020 年5月31(日)ペンテコステ礼拝   国分寺教会 牧師 願念 望
「主が共に生きておられるから」 ヨハネによる福音書14:15-19

この朝与えられています言葉は、主イエスが弟子たちと最後の夕食を共にされていたときの語りかけです。十字架に命をお献げになる直前に、最後の食事の席で、弟子たちに神の言葉、説教を語りかけていかれた。その説教の中で、とくにこの朝の短い箇所は、慰めの頂点とも言うべき御言葉が記されています。どうか共に、主の慰めの御言葉に耳を傾け、思いを深めてまいりたい。

主イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(15)と言われました。このような御言葉を聞くと、正直どのように思われるでしょうか。主の語りかけを近くに感じて慰めの御言葉と思われるでしょうか。ある方は、私もはじめそうだったのですが、「わたしの掟を守る」という言葉に思いが引っ張られて、主イエスの掟を守らなければならない、しかし自分は守れていない思いになって、御言葉を遠く感じるのではないでしょうか。

ここで主イエスが言われる掟とは、主が弟子たちの足を洗われて、そのあとに与えられた掟です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13:34-35)

掟を理解する鍵は、「わたしがあなたがたを愛したように」ということです。主イエスの愛が出発点になっている掟なのです。別な言い方をすれば、掟を守る力の源は、主イエスの限りない愛にあるということです。主が弟子たちの足を洗われたときに、裏切るイスカリオテのユダの足をも洗われました。そこに人の思いでは理解しがたい、敵をも愛する限りない神の愛があらわれているのです。

信仰生活の喜びは、主イエスが私のような者を愛してくださっていることを信じて、私どももまた主イエスを愛するようになっていくことです。主イエスを愛して、その御言葉の恵みに生きて、主に従っていこうと祈っていくことは、喜びです。そのように主を愛して祈って生きていくときに、私どもは掟を守って生きていく恵みを受けるのです。ですから、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」という御言葉は、本来、約束の御言葉として聞くべきなのです。しかし弟子たちは、どれほど約束の御言葉として聞いたでしょうか。私ども同様に、互いに愛し合うことに欠けを感じたのではないか。

主イエスは約束されました。「わたしは父にお願いしよう。父は別に弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16)「弁護者」というのは、元々、呼ばれて傍らにいる者という意味です。「この方は、真理の霊である。」(17)とありますが、冷たい真理ではなく、愛の真理によって動かしてくださる霊、聖霊です。
この日の礼拝は、ペンテコステ礼拝です。聖霊が私どものところにきてくださって教会が誕生した、聖霊降臨を祝う礼拝でもあります。聖霊は、弁護者として弁護して、神の赦しの恵みに生かしてくださる。しかも真理の霊として、真理をまげることなく弁護して救いに生かしてくださる。それは神様にしかできないことです。聖霊は、愛に欠けた私どもを動かして、祈りを支えて主イエスの愛に立ち返らせ、キリストの愛からはじまる互いに愛し合う恵みに生かしてくださるのです。それは、主イエスが霊として共にいてくださるのと全く等しいのです。

主イエスは慰めの頂点とも言うべき約束をなさいました。「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。」(18)「戻ってくる」というのは、主が復活されて弟子たちに出会われることだと言われます。しかしそれだけではなく主イエスが霊として共にいてくださることを約束なさったと聞くことができるのです。

「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。」この御言葉を愛唱して天に召された方を思い起こします。10年あまり前のことですが、その方は、かつてハンセン病をわずらい、家族と引き離されて青森で療養されていました。あやまった理解の元で、隔離されたのです。病室をたずねると、いつも「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」という御言葉を読んで祈りました。葬儀のときに、その方のお姉さんの娘さんたちが参列してくださいました。それはとてもまれなことでした。姪御さんたちは、母から晩年妹がいることを聞いて驚いたし、療養所に隔離されたことを知りつらい思いになったけれども、ここで叔母が恵まれて仲間と生活していたことが分かりました、と言ってくださった。互いに愛し合う恵みを生きて天に召されました。

主は約束されました。「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」聖霊はいかなるときも共にいてくださるのです。天に召されるときも、私どもをひとりにはなさらず一緒にいてくださるのです。
「わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる」と主イエスが約束されたことは、聖霊によって実現しているのです。
主イエスはとこしえに、愛に生きておられます。主が愛に生きておられるので、私どもも愛に生きることができるのです。互いに愛し合うことにどんなに乏しく、弱さを感じても、聖霊が私どもの傍らにいつまでもいっしょにいて助けてくださるのです。

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