2020年5月24日(日)礼拝式次第と説教 「命の水」

 

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)をしています。

日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。

それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

 

礼拝式次第 2020年5月24日(日)10時30分

復活節第7主日
司式  牧師  願念 望
奏楽  河野美和子

前 奏
招 詞     詩編68編20-21節
讃美歌     204-1節 〝よろこびの日よ〟
交読詩編     詩編46編5-12節
祈 祷
讃美歌             55-1節 〝人となりたる神のことば〟
聖 書       ヨハネによる福音書7章32-39節(新約179頁)
説 教       『命の水』 伝道師 佐藤 倫子
讃美歌        132-1節 〝涸れた谷間に野の鹿が〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美      90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

 

説教 2020年5月24日(日)
「命の水」       国分寺教会 伝道師 佐藤倫子
聖書箇所 ヨハネによる福音書 7章32-39節

■渇き

「渇望」という言葉があります。ひたすら喉を潤す水をあえぎ求めるという気持ちを表していますが、日本で生活していると、実際そこまで水を強く求めることはないように思います。日本は水道水が飲める世界で15しかない国の1つなのだそう。しかし、一歩外に出てみると、水は貴重な資源です。聖書の舞台、イスラエルも例外ではありません。そのイスラエルでイエスは「渇いている人はだれでも」と呼びかけられます。貴重であるはずの水を誰でも、と。もっともここでイエスが与える水は肉体的な渇きを癒すものではありません。それよりももっと貴重な精神的な渇きを癒す水なのです。肉体的な渇きはすぐ気づきます。しかし、精神的な魂の渇きは私たちの感覚とは関係なく、無自覚的に起こります。精神的には渇望を覚えているにも拘らず、私たちは自分をごまかし続けています。しかし、一生それをごまかし続けることなど出来はしません。この魂の渇きは自らの努力によって克服できるものでもありません。私たち自身の力では、ごまかすことはできても、根本的な解決には至りません。結局人間は、自分の力だけで自分を支えきることはできないのです。

 

■「渇いている人はだれでも」

イエスはそのような渇きをもつ私たちに「わたしのところに来なさい」と言われました。強がらなくてよい。隠さなくてよい。私たちの全てをイエスの前にさらけ出して、「渇きを癒す水」を求めてよいのだ、と。自分の魂の渇きに気づき、さいなまされる者が、イエスのもとで「生きた水」を飲むことができます。それは、テレビの宣伝や雑誌の広告のように、「○○に行けば渇きが満たされます」とか「○○をすれば疲れが癒されます」というようなことではありません。特効薬があるわけでもありません。この地上にある物全てを持ち出しても、その渇きは癒されることはありません。イエスはただ一言、「わたしのもとに来なさい」と言われる。「わたしのもとに来て飲みなさい。そうすれば、あなたの渇きは満たされる」とおっしゃる。これは非常に重い言葉です。イエスとの出会いによって、私たちは初めて、その渇きを癒されます。出会わなければ、癒されることはないとさえ言われています。私たちを本当の意味で生かすもの、私たちの渇きを癒してくれる生きた水は、イエスとの出会いによって私たちに与えられます。「生きた水はほかにはない。ただわたしのうちにある」とイエスは全ての人を招かれるのです。

 

■生きた水があふれ出す

そして、イエスのもとに来る者は、自分が癒されるだけではありません。もちろん、イエスと出会ってまず癒される、その喜びに優るものはないでしょう。生きた水によって渇きが満たされるのです。しかしその水は、一人自分に留まるものではありません。私一人を癒すばかりでなく、今度はその周囲の人々をも潤し、癒し始めます。川の本流から支流が分かれてその地を潤し、支流から分かれ出た小さな流れが、またその周りを潤すように、イエスと出会った一人一人から生きた水が溢れ出すのです。

 

■渇いている人はだれでも

生きた水の流れがはっきりと目の前に見えています。その水を受け、心の渇きが癒されます。気づかないうちに背負っていたものが、いつの間にか降ろされている。この世でひとりぼっちだ、誰も自分を助けてくれる者などいないと思っていた小さな自分に気づく。人生の最後の瞬間まで、守られ、生かされる安心の中にいることに気づく。しかも、イエスと出会った私たち一人一人から、その生きた水が溢れ出しています。その量は一人一人違うでしょう。私たち自身が感じるほど、大きな流れではないかもしれません。しかしそれは、全て意味あること。私という一つの人格を通して、生きる力があふれ出しています。流れ出す命の水は私を生かし、そして、私と出会った全ての人を生かしていく。暗く、寂しく、むなしいと思っていた人生に光を与えることができるのです。新型コロナウイルス禍はまだまだ終わりが見えません。しかし、命の水を受けた私たちは、この世のものに惑わされず、またこの世のものに頼らず、しっかりと自分の足で立ち、新しい一歩を踏み出すことができるようになっています。イエスの命の水、聖霊が与えられた記念の日は、目前に迫っています。もう一度、その喜びを思い返しましょう。そして感謝と共にさらに新しい一歩を踏み出していきたいと思います。

 

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