日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
礼拝式次第 2020年5月10日(日)10時30分
復活節第5主日
司式 牧師 願念 望
奏楽 河野美和子
前 奏
招 詞 詩編118章23-24節
讃美歌 288-1節 〝恵みにかがやき〟
交読詩編 詩編106編1-5節
祈 祷
讃美歌 52-1節 〝歌え高らかに〟
聖 書 ヨハネによる福音書15章18-27節(新約199頁)
説 教 『あなたがたも共にいた』 伝道師 佐藤 倫子
讃美歌 377-1節 〝神はわが砦〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福 牧 師
後 奏
説教 2020年5月10日(日)
「あなたがたも共にいた」 伝道師 佐藤倫子
聖書箇所 ヨハネによる福音書15:18-27
■あなたがたの前にわたしを
初め、イエスが人々の前に姿を現したとき、その奇跡的な力に人々は熱狂しました。自分たちの願いが叶うかもしれないという淡い期待に胸をふくらませました。それゆえ、イエスは人々に認められ、愛されて日々を過ごされました。ところが、その愛は一瞬にして憎しみに変わってしまいます。それまで自分たちが正しいと思っていたことが間違っていると指摘された途端、手のひらを返したようにイエスをののしります。自分にとって都合のよいときはほめたたえ、愛し、その反対になれば、憎むのです。イエスはこの憎しみを一身に受けられました。この憎しみによって、イエスは重い十字架を負われます。そして、ついにはゴルゴタの丘ではりつけにされ、殺されてしまったのです。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハネによる福音書15:18)
この言葉が語られた時からずっと後になって、イエスの弟子たちは、人々からの激しい憎しみと迫害を経験します。イエスと共にいる時には経験しなかったような辛さ。ここに、この世の厳しい現実があります。この世は決して常春の国ではありません。時に冷たい木枯らしが吹き、身も凍るような冷たい雨が降るような世界です。イエスはこの言葉によって、弟子たちにその現実を思い起こさせようとしておられます。弟子たちの覚悟を確認するかのように。そしてそれは同時に、どれほど冷たい世の中にあってなお、イエスと弟子たちとの関係が熱く、温かいものであることを確認するかのようでもあります。
■証しをするのである
そのような弟子たちに向けてイエスは、「初めからわたしと一緒にいたのだから」、イエスのこと、神のことを隣人に証ししなさいと命じられます。その熱く、温かい関係、喜びの関係を自分だけのものとせず、この世界に広げて行きなさい、と。そして、このイエスの言葉は、この時だけに限定されたものではありません。時代や場所を超えて私たちにも語りかけられている言葉です。私たちもまた、イエスの死と復活を弟子たちと共に見てきた一人一人です。だから「証しをする」のです。それは決して強要されているものではありません。イエスの十字架と復活によって生かされている喜びから自然と出てくるものです。証しせずにはいられないものなのです。
■あなたがたも共にいたのだから
今、私たちの目の前には、新型コロナウィルスの影響で共に礼拝を捧げることが出来ないという状況があります。毎日、毎日大変なことが沢山、私たちに降りかかってきます。しかし、そんな中でも考え続けていきたい。こんな時だからこそ神様を見上げ、自分を見つめ直したいと思うのです。今できることはなんであるのか。何を証ししていくのか。しかし自分の中には語る言葉が湧いてこない……。そこでイエスの背中を見て、気づかされるのです。イエスは、どのような時にあっても、またどのような人に対してもしっかりと向き合われました。自ら身を折り曲げ、その人と共に歩もうとされました。イエスを否定し、自分の思い通りに生きようとする人々のために、自ら命をかけていかれたイエスの姿を私たちは知っています。「誰かのために」行うのではなく、「誰かと共に」生きることによって、愛の関係は築かれていくのです。この世の全ての人々、私のことを愛してくれる人、愛してくれない人、私を憎んでいる人、そして、私が憎むかもしれない人。この世的な価値観の中に生きている人々、その一人一人と共に苦しみ、共に悩み、共に悲しみ、共に喜ぶ時、そこにイエスはおられます。あの時、弟子たちと共におられたイエス。弟子たちに証しをするようにと命じられたイエス。時間と空間を超えて、イエスは私たちに「あの時、あなたがたも共にいた」のだから、あなたがたも「誰かと共に生きて行きなさい」と命じておられます。私たちと他者との関係の中に、イエスは共にいてくださいます。神の愛はそこにこそあるのです。そして、私たちはイエスの見せてくださった愛の姿、その愛を実践することによってイエスを、そしてその福音を証しすることになります。数百、数千の言葉よりももっと力強く、証ししています。そして、私たちの働き全てを通して、主の恵みが全ての人に広がっていきます。そこに希望があるのです。その力を信じて今、私たちは歩んでいきます。今日、この時から、その歩みをもう一度始めて参りましょう。