2020年4月19日(日)礼拝式次第と説教 「見ないのに信じて生きよう」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。

日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。

それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

 

礼拝式次第 2020年4月19日(日)10時30分

復活節第 2主日
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  河野美和子

前 奏
招 詞     イザヤ書40章28-29節
讃美歌     51-1節 〝愛するイェスよ〟
交読詩編     詩編61編1-5節
祈 祷
讃美歌             120-1節 〝主はわがかいぬし〟
聖 書       ヨハネによる福音書20章24-29節(新約210頁)
説 教       『見ないのに信じて生きよう』 牧師 願念 望
讃美歌        326-1節 〝地よ、声たかく〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美      90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020 年4月19(日)
「見ないのに信じて生きよう」       国分寺教会 牧師 願念 望
聖書箇所 ヨハネによる福音書20:24-29

私どもは、神の御言葉を聞き取ろうと共に礼拝を献げています。私どもへの神の語りかけとして、与えられた聖書の箇所を、どのように読んだらいいでしょうか。あるいは、どのように教会は神の御言葉を聞き取ってきたのでしょうか。もちろん、主なる神の働きなくして聞き取ることはできません。主の働きを信じてのことですが、ひとつには、登場人物に自分を重ねるようにして読んでいくことです。今日の箇所ではトマスですが、主イエスがトマスに語りかけられた言葉は私どもへの言葉でもあります。トマスと出会われたその出来事を、自分のことだと、私どもの物語だと信じて思いを深めていきましょう。

トマスという主イエスの弟子が、復活された主イエス・キリストに出会いました。とても有名な話です。これまでながく教会で愛されてきました。なぜ愛されてきたかというと、私どもとの接点、共通点を見いだしやすかったからかもしれません。よく、トマスのことを、疑い深いトマス、と呼んだりします。ほかの12弟子たちのところに、復活された主イエスが来られたとき、そこにはトマスはいなかった。主に出会った弟子たちから主イエスの復活を聞いても、すぐには信じられなかった。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25)と言い切りました。とても正直です。少なくとも信じたふりをしなかった。

ドイツのある神学者は、ディディモと呼ばれるトマス、という言葉に注目しました。ディディモというのは、ふたごという意味です。ふたごのトマスのもうひとりは、どうなったかはわかりません。トマスと同じようにキリストの弟子になったとか、さまざまに言い伝えがあります。しかしその神学者は、もうひとりのトマスは、私どもひとりひとりだというのです。

ふたごのトマスのひとりとして、私どもと重ねて考えてみますと、自分を照らされるような思いになります。この度の感染症による厳しい状況のもとで、とても弱さを感じています。ちょっとしたことに、ダメージを感じることがあります。たくさんの方からのメールやお便りにとても励まされて支えられていると共に、弱さを感じているのが正直なところです。しかし、できていないことよりも、できていること、与えられていることを少しでも感謝するように悔い改めました。そして正直に自分の弱さを主に告白して、主よ、どうか助けてください、と祈るようにしています。
トマスが、主よ、どうか助けてください、と祈ったかどうかは分かりませんが、少なくとも、トマスは主の助けをどうしても必要としていました。それは私どもと全く同じです。
トマスとほかの弟子たちは、鍵をかけて部屋に閉じこもっていました。その日は、主が復活されたちょうど一週間後、私どもで言えば主日、日曜日の礼拝のときです。まさにイースター礼拝の翌週です。トマスたちは事態を打開できない悩ましい閉塞感に支配されていました。しかしそのようなときに、主イエスはトマスたちのところに来られました。鍵が全部かけられていたのに、人にはだれもできない、主なる神のみがなさることができるかたちで、入ってこられました。だれも踏み込めない、働きかけられないところに、主は入ってくることができる。働きかけてくださるのです。トマスたちになさったように、「あなたがたに平和があるように」と御言葉によって、働きかけてくださるのです。

「平和」という言葉は、元々は旧約聖書のシャロームからきています。主なる神が、私どものあらゆる弱さに、欠けたところ、その罪深さに働きかけて、赦しを与え、欠けたところを満たそうと働きかけてくださっている、主のわざがシャロームです。「あなたがたに平和があるように」とは、主の救いの恵みと喜びがあなたがたにあるように、と主が働きかけてくださっているということです。

主イエスはトマスをさばかれませんでした。彼の弱さ、不信仰という罪深さのただ中に入っていかれました。まさにシャロームがトマスに与えられたのです。
トマスのことをすべてご存じである主は「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27)と語りかけられました。私どもにも、私どものすべてをご存じである主が「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけてくださいます。

主なる神は、いかなるときにも、いかなるところにも、私どもの神として共にいまし、働いてくださることができることを、信じていきましょう。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」
トマスは主イエス・キリストの働きかけ、シャロームによって信仰を告白します。「わたしの主、わたしの神よ。」(28)文語調で言えば「わが主、わが神よ」です。トマスはいっしょにいた弟子たちの最後に主に出会うのですが、トマスの告白は、代々にわたる教会の告白として受け継がれてきました。

「わたしの主、わたしの神よ。」これはもちろん、利己的な自分の願いを叶えるためのわたしの神、ということではありません。礼拝を献げる私どもが、ひとりひとり信仰を抱いて共に「わたしの主、わたしの神よ」と告白し、主の助けを祈ることができるのです。自分と仲間のために、この地と世界中の、主が愛しておられるすべての人のために祈るのです。
しかも私どもは、「見ないのに信じる人は幸いである」(29)と言われた主の御言葉の働きかけのもとに生きています。見えないけれども主は、私どもに語りかけて働いてくださっています。「見ないのに信じる人は幸いである」教会は、見ないのに信じる幸いに生かされてきました。
見ないのに、共におられる主を信じる幸いを生きていきましょう。

 

 

 

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