礼拝式次第と説教 2020年4月12日(日)イースター礼拝「主は名前を呼んでくださる」   

2020年4月12日

主の平安と守りを祈りつつ掲載します。

イースター礼拝式次第      2020 年4月12 日(日)午前 10 時30 分
復活節第 1主日

司式    伝道師  佐藤 倫子

奏楽  河野美和子

前 奏
招 詞    詩編23編1-3節
讃美歌   321-1節 〝しずかな喜び〟
交読詩編  詩編 30 編2-3節
祈 祷
讃美歌   327-1節 〝すべての民よ、よろこべ〟
聖 書    ヨハネによる福音書20章11-18節(新約209頁)
説 教    『主は名前を呼んでくださる』 牧師 願念 望
讃美歌   332-1節 〝恐れを捨て去り〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020 年4月12(日)イースター礼拝
「主は名前を呼んでくださる」         国分寺教会 牧師 願念 望
聖書箇所 ヨハネによる福音書20:11-18

主イエスが死からよみがえられた朝、泣いているひとりの女性がいました。マグダラのマリアです。マリアは、主が復活されたことをまだ知らなかった。絶望の中にいました。主の復活の朝、最初のイースターは、悲しみ、嘆きではじまりました。

私どもはいま、イースターの朝、非常事態宣言が出された中で礼拝を献げています。礼拝堂に集まることができないで、それぞれのところで共に礼拝を献げています。イースターを祝う、晴れやかな思いというよりは、悩ましい思いの中で、祈りつつ献げています。しかしこのような厳しい状況だからこそ、私どもに命を授けて、救いの恵みに生かしてくださる主を信じて、共に思いを深めてまいりたい。

最初のイースターの朝、マグダラのマリアは泣いていました。その三日前、マリアは主が十字架に殺されてしまったとき、深く絶望したはずです。しかし彼女はその絶望の中、せめて、主のお体を大切にいたわりたいと思った。香油を持って、主のお墓に朝早く出かけて行ったのです。しかし主のお体はお墓にはなかった。
主イエスのお墓は、横穴式のようなものをイメージされるといいのですが、その入り口にあった円形の大きな石が取りのけられて、中は空っぽでした。マリアは身をかがめて中をのぞくと、そこには、天使がいたのですが、その天使たちに、主が取り去られて、どこに持ち去られたか分からない、と告げます。
さらにマリアがふりむくと、そこには園丁に見える人が立っていました。その人が主イエスとは分からずに、もしあなたがあの方の体を運んだのでしたら、私が引き取ります、と言うのです。マリアの思いはわかりきりません。しかし、私に主のお体を引き取らせてほしいと願うその言葉に、つたなくも、主イエスへの愛を感じますし、またどうしようもないけれども何とかしてほしいという祈りを聞く思いがします。

すべてをご存じである主イエスは、「マリア」と名前を呼ばれました。マリアは、ヘブライ語で「ラボニ」と主イエスに言います。「先生」という意味です。マリアは、復活の主に出会うことができました。主がマリアの名前を呼んでくださったからです。
ヨハネは、マリアが言った「ラボニ」という言葉をそのまま伝えました。おそらく当時の初代教会は、「ラボニ」という言葉を、とても大切にして、主に向かって「ラボニ」と祈ったのではないか。それは、マリアの名前を呼んでくださった主が、同じように一人一人の名前を呼んでくださる、と信じたからです。
名前を呼ばれたマリアは、復活された主イエスに出会い、絶望と悲しみから解き放たれました。その同じ恵みに私どもも生きることができるのです。マグダラのマリアは、かつて自分の罪に悩んだと言われます。「マリア」と呼んでくださる主イエスによって、赦しの道、救いの道が与えられたことを信じて仕えていった。自分のような者の名前を呼んでくださった主は、あなたのことも愛して名前を呼んでくださると、語り続けたはずです。だからヨハネは、「マリア」と主イエスが呼ばれ、「ラボニ」と言ったマリアの言葉をそのまま伝えたのです。

先週、何人もの方から、お便りやメールをいただきました。悔い改めましたことは、普段の教会生活がどれほどありえない恵みであったかということです。同じようなことを書いてくださった方もあります。そして、主の御言葉を、ひと言、ひと言、食べるようにして生きておられる姿に接しました。主がいっそう確かに、私どもに働きかけてくださっているのです。
ある学者は、マグダラのマリアは、殉教したかもしれない、と書いていました。そうかもしれないと思います。初代教会は、自由に集まれない迫害の中、礼拝を続けました。地下のお墓で、棺を囲んで礼拝するようなこともあった。しかし、主の恵みは強く働いて、彼らは、主の御言葉によって力をいただき、養われていきました。
私どもはいま、初代教会と同じように、不自由さの中です。しかし、かつてマリアの名前を呼ばれた主が、かわらずに一人一人の名前を呼んでくださる、主の確かさによって生きていきましょう。

「マリア」と主が呼ばれたところに、ご自分の名前を当てはめてみてください。「マリア」と呼ばれた主が、私どもの名前をひとりひとり呼んで、語りかけてくださるのです。
愛する主が、語りかけてくださいます。わたしは生きていて、あなたのすべてを知っている。あなたのすべてを赦し、希望を持って忍耐するように助ける。わたしが主であることを、あなたの神であることを、このときこそ信じて味わうように。
共に、主の確かさによって、祈りつつ生きていきましょう。

 

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