聖書:フィリピの信徒への手紙4章9節
国分寺教会 牧師 願念望
2016年4月
「平和の神は、あなたがたと共におられます。」(聖書、フィリピの信徒への手紙4章9節)
あるとき、もうずいぶん前のことで、15年ほど前になりますが、大分県の由布院教会牧師の頃の話です。付 属の保育園の園長もしていました。同じ地区の園長仲間には、浄土真宗のご住職も何人かおられました。仲良くなったご住職から、県内の浄土真宗の保育園研修 会で講演を依頼されたのです。
「牧師でかまわないんですか。」とおたずねすると、
「かつて、岩倉具視使節団がヨーロッパを視察したときに、浄土真宗の住職たちも同行しました。むこうのキリスト教会付属の幼児施設を視察して、日本での保育がはじまったんです。ですから、原点に帰る意味でも、キリスト教の話をしてください。」と言われました。
初めて聞く話でしたが、そのようなことを伝えていただいてもなお、懐の広さに教えられました。
100名を超える方たちが、畳敷きの会場を満たして熱心に聞いてくださいました。
その講演の中で、「くつやのマルチン」の話をしました。
マルチンは、町のくつやです。歩く人の足を見れば誰だか分かるほどに、たいていの人のくつをマルチンがつくっていました。年老いたマルチンは、つれ合いを先に天に送り、ひとりで暮らしていました。
ある寒い冬の日のことです。
朝からマルチンは、外を気にしていました。
前の日の夜、祈っていると、イエス様がマルチンのところに来られると聞いた気がしたからです。
ふと外を見ると、雪かきのおじいさんが寒そうにしています。
気になったマルチンは声をかけて、中に入ってもらい、温かい飲み物を出しました。おじいさんは、心も温まったと感謝して帰っていきます。
イエス様はまだかとまた外を見ると、赤ちゃんの泣き声がします。
見ると、真冬に夏服を着て、寒そうに赤ちゃんを抱いているお母さんがいました。
マルチンは部屋の中に迎えて、パンとスープを食べてもらいます。
そして、帰るときに、自分の上着を差し出します。
お母さんは、その上着を自分は着ないで、赤ちゃんを大切にくるんで帰っていきました。
イエス様をお待ちしてまた外が気になります。
突然、子どもを「こらっ」と怒鳴りつける声がします。
リンゴ売りのおばあさんから、男の子がリンゴを盗んだからです。
すぐ外へ出て行ったマルチンは、おばあさんに、この子をゆるしてやってくれ、と頼んで代金を払ってやるのです。
おばあさんは、ゆるす心が与えられて何だかうれしくなり、子どももおばあさんの重たいカゴを持ってあげようとするのです。
その日の夜、マルチンは、イエス様はとうとう来られこられなかった、とがっかりします。やはり思い過ごし だったのだろう、ずいぶん大それたことを思いうかべたものだと心で笑うようにして夕べの祈りをささげたのです。すると思いがけないことに、その日に会っ た、おじいさんや母親と赤ちゃん、男の子とあばあさんの姿があらわれます。
そして、イエス様の言葉を聞くのです。
「マルチン、ありがとう。」
「あなたがしたことは、すべてわたしにしてくれたことなのだよ。」
イエス様を愛して生きていくことは、イエス様を信じて生きていくことです。そのことはまた、イエス様が愛しておられるひとりひとりを心にとめて愛していくこととひとつのことなのです。
聖書が語るように、「平和の神」は、私どもと共におられます。
「平和」という聖書の言葉は「平安」とも訳されます。旧約聖書の元々の言葉では「シャローム」です。「シャローム」は、すべてにおいてすべてを満たそうとする神様の働きを言いあらわす言葉でもあります。
シャロームの神が私どもをゆるし、すべてを満たそうと共にいてくださるのです。
実に恐れ多くもったいないことです。